「妄想代理人」の考察

2024年3月18日
最終話のコメント欄を開き、自分の考えと同じ考えを探したのは私だけではないだろう。いくつかのサイトやコメントを確認し、考察を拝読したが、私の考えと同じものを見つけることができず(ないとは言っていない)、気持ち悪くなってしまったため、ここに記すことにする。2024年現在、またそれ以降、この作品が作られてから長い時間が経ったためどれだけの人が見てくれるかわからない。加えて、英語のコメントが多いこのコメント欄で、私の日本語の長文がどれだけ読まれるかはわからないが、変な使命感で書き連ねるとする。なお、事実ではないし、私の妄想に過ぎない。妄想であるからこそ、全て納得できた。そんな私の妄想を読んでほしい。

結論から言うと、この話は全て馬庭光弘=謎の老人の経験に基づいた妄想である、というのが私の解釈だ。一部考察にて、馬庭が最後、謎の老人の跡を継いだ、妄想廃人になってしまった、この世界はループしているなどの考察があったが、どうも腑に落ちない部分がある。第一に、馬庭が老人の跡を継いだ説だが、全く同じ数式を同じ筆跡で書くことは不可能ではないだろうか。第二に、あの世界はあくまでも現実に基づいた世界であると思われる。なぜなら、少年バットの一連の事件はファンタジーやSFの力を借りず説明されており、基本的に訳の分からない部分は登場人物の妄想である。つまり、世界のループなどありえないのだ(妄想を除いては)。以上が、巷の解釈が納得いかない根拠である。

ここからが「すべての話が馬庭光弘=謎の老人の妄想説」の根拠である。
根拠:老人が少年バットの事件やそれに関わる事実を予知している。
根拠:馬庭に妄想力があること。
根拠:話の主人公が馬庭であること。
根拠:第一話(妄想が始まる前)と最終話(復興後)の映像がほとんど同じであること。
根拠:最後に自分自身(馬庭)が老人であることに気づくこと。
根拠:現実世界ではありえないすべての現象が妄想であれば説明がつくこと。
根拠:馬庭と老人の接触を描く多くの描写。
根拠:第七話の全て(詳細は後程)

以上の観点が、馬庭=老人の妄想であれば全て納得できるのだ。ここまでは考察であり、ここからは妄想だ。老人(馬庭)はおそらく、本当に少年バット事件を担当した元刑事だ。バット事件の真相は、サギの幼少期の妄想代理人が大人になってから蘇ったことを起点とする一連の集団妄想事件。以下は被害者:犯人(考察含む)だ。
サギ:妄想
川津:サギ
牛山:狐塚
鯛良:妄想
蝶野:妄想
蛭川(男):狐塚
狐塚:馬庭
蛭川(娘):妄想
第十話以降は割愛(ほぼ妄想)。

ポイントは、狐塚が自殺でも、少年バット(妄想)でもなく、馬庭の犯行であるという点だ。自殺であるとすれば、収監場所の檻が開いている点、あそこまでの出血量の説明が難しい。それに、自殺できる人間に少年バットは手を下さない(第八話参考)。少年バット(妄想)による犯行であれば、死ぬことはできないだろう(自殺を除いて)。思い返せば、少年バット(妄想)の犯行で人が死ぬことは一部例外を除いて存在しない。少年バットは自殺で現実逃避が困難な人物に、都合よく現れる存在であり、基本的に殺すことはない。そこで生まれる可能性は、馬庭が殺したという線だ。

ではなぜ馬庭は狐塚を殺したのだろうか。それは、少年バットの真相解明のためである。猪狩は一連の事件を狐塚による犯行として解決を図っていた。しかし、妄想力豊かな馬庭には、一部の事件が各被害者の妄想であることに気が付いていた。それを証明するには?そう、狐塚が妄想(少年バットによる犯行)で死んでくれるのが一番早い。狐塚が死んだ後も少年バットによる事件が続くからだ。おそらく、その妄想力と狐塚を殺した罪悪感から、精神を崩壊させてしまったのではないだろうか。いや、狐塚の事情聴取の時点で崩壊していたのかもしれない。いずれにせよ崩壊した精神のまま、妄想にふけりながらマロミと少年バットの招待を突き止めたのだろう。その後、精神病院に入り、我々が見せられていた話を何度も妄想しているのではないだろうか。

以上が私の妄想と推論から導いた根拠である。
第七話を見ると、老人=馬庭という可能性を感じざるを得ない。狐塚の聴取の間、馬庭は妄想の中で老人に会いに行く。老人は馬庭と同じPCに囲まれた部屋にいて、そこから被害者の名前を冠した食材の料理を食べていく。鷺、蛙(川津)、鯛、最後に蝶だ。注目していただきたいのは、蛙(川津)の犯人は少年バットではなく、サギツキコである点だ。川津は実際にはサギによって被害にあった。その証拠は事件発生直後のサギの手に鉄パイプが握られていたことだ。つまり、老人は予知できていると思われていたが、それは事実でないことも含まれる。何が言いたいかというと、老人の予知は馬庭の認識に基づくものであるということである。馬庭は川津が慰謝料の取り立てに悩む少年バットの被害者だと考えていた。しかし事実は、サギの被害者。つまり、馬庭と老人の認識が同じであることがわかる。

第七話にはほかにも馬庭の犯行をほのめかすシーンが描かれている。追い詰められたところに少年バットが現れるという言葉とともに、自分が少年バットに殴られるシーンは自分が追い詰められていることを意味する。それに加えて、何度も同じソファで悪夢から目覚めるシーンが描かれている。馬庭が妄想と妄想内での夢と、そのまた夢と、、、筆者自身理解が及ばない部分が多いが、同じ体制で夢から目覚めることはあり得ないことから、全て老人=馬庭の妄想であると考えられる。リビングの隣の部屋が通信室になっていることも妄想であれば納得できる。

この妄想が面白い点は、猪狩と馬庭の現実と妄想に対する向き合い方が皮肉的な部分だ。猪狩は各被害者の妄想を否定して、全てを狐塚の犯行として決めつけた。これは、事件が妄想であるという現実から逃避していることになる。一方で、馬庭は狐塚の妄想に付き合ったあげくに、各事件を被害者の悩みとして少年バット(妄想)と向き合った。つまり、事件が妄想であるという現実に向き合うために妄想にふけっていた。果たして、どちらが妄想の中でどちらが現実なのか。どちらが現実から逃げずに妄想と戦ったと言えるのだろうか。

以上が「すべての話が馬庭光弘=謎の老人の妄想説」である。根拠が薄い部分もあるが、妄想なので悪しからず。ただ、この妄想をもとに見返してみると、妄想がまた膨らみ、観ているあなたがまさに私の妄想代理人、なんてことに、、、、思い返せば、この妄想代理人という題名、はじめは少年バットが妄想を実現してくれるからだなんて考えていたが、これは老人=馬庭の妄想を生きる各登場人物の事なのかも。あるいは、こんな妄想を繰り広げている私たちのことなのかもしれない。

最後に、物語全体の解釈を添えて。私はマロミをネットの世界だと考える。自分の妄想の世界にふけることができ、現実を逃避できる。だが、その妄想に依存しても生きていけなくなった時、人は消えたくなってしまうのかもしれない。しかし、死ぬ決意はおそらく、とてつもなく勇気がいることだと思う。その勇気すらも持てない人が、少年バットという妄想に逃げるしかなくなってしまうのではないだろうか。

早く寝るために急いで書いたものなので、誤字脱字はご了承ください。
皆さんの感想、批評、お待ちしております。

ペンネーム:馬庭光弘の代理人・大詐欺師 より

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