見出し画像

父殿にならなかった阿修羅【掌編小説】

※1944字数。
 本作品は二人称小説です。

 茂男、あなたが亡くなって四十九日が過ぎた。昨日その法要は無事に終わっている。私は、毎夜襲いくる寂寥感を紛らわしている。その時の気分によって日記にしたり、言葉にしたり。くよくよするのはやめてほしい、だの、早く新しい恋を見つけろ、だの、突き放すようなセリフが天国から降ってきそうだけど、まだあなたが忘れられない。私にとって、あなたは人生そのものだから。死ぬなんて、その上亡き骸になるなんて世界の終わりがきたようなものだったから。

 私を一途に愛してくれていた。
 浮気する男が増殖している世の中で、又離婚率が上がっていることを鑑みるに、男としての矜持を示してくれた人だった。今だに最愛の存在でありながら、人生の恩人である。
 「子供なんかいなくても、家族は成立する」とあなたは常々言っていた。まるで、子供なんか不要とばかりに。
 子供が産めない身体だった私を骨の髄から愛してくれていたに違いない。私はいつも泣きながら謝っていた。その聖父のような優しさに甘えていたのだと思う。長男として子孫を残せなかったこと、しかも39歳という若さで亡くなることはあなたにとって痛恨の極みだったに違いない。

 たった一度だったか、大きな事件があったね。
 その日は暴風雨が東京都内を襲ってきていた。気持ちの伏線は私の中であった。
 「美佐! 昨日は出張じゃなかったの?」
 あなたの目は、まるで少年が何かを悟ったような怒りを湛えていた。私は思考停止状態に陥るほどだった。
 「出張先の北海道にいたよ」
 私は勤務先である東京から、絶対に追いかけては来れない場所を偽の出張先に選んだ。
 あなたは珍しく会社の部下と都内の居酒屋で飲んでいたらしい。その夜は残業も無く、帰宅したとLineがあった。
 「美佐を新宿歌舞伎町のホテル街で見た」
 茂男の目は本気だった。間違っても冗談を言っているのではない。しかも、寸分の間もなく答えることを私に求めていた。私は一瞬で閃いた言葉とリアクションを捨てた。外から車と何かが激しくぶつかる轟音が聴こえた。
 「はい。確かに、あの夜ホテル街にいました」私は恐怖におびえて観念していた。
 「何をしていたんだ!」茂男の語気が先ほどの外からの轟音よりもズシリと響く。
 「すみません。過ちを犯してしまいました・・・」
 私は自らの悪事を認めて、ひたすら謝った。
 「何も理屈は言いたくはないけど、美佐の事情を受け入れて、僕は一生を添い遂げようとしているんだよ」
 事情とは、私が妊娠出来ないことを言っていたのだろう。事情を受け入れたのに、私は身勝手にも情事に走ってしまった。
 茂男は怒りを通り越して、呆れている。
 私は、返す刀がないと言わんばかりの情けない表情をしていた。これで、茂男との結婚はご破産になるのか。
 (これからどうすれば・・・)私は、父や母、親族達の憐れむ表情を思い浮かべた。
 茂男は完全に黙りこくっていた。いや、無言になると何かを必死に考えるあの阿修羅像のような表情になっている。
 しばらくして、茂男は私を見つめるなり涙を流して訴えた。
 「いいか、美佐ちゃん。これからは、相手の聴こえない心の言霊に両耳を傾けてよ」
 私は全ての意味が分からないまま、深く頷いた。深々としたまま、頭を上げることはできなかった。
 「誰も、結婚直前に【浮気をするな】とは絶対に言わない。言えない」茂雄は溢れる涙を新調したばかりのスーツ上着で拭った。
 「二人で生きていくと決めたのだから、仲良くしていこうよ」
 急に冷静になったあなたは私にそうやって語りかけてくれた。
 私は茂男の温情に心が追いついていなかった。ダーっと、涙が頬に伝ってきてからは何を言われたかあまり覚えていない。
 「美佐ちゃん、涙ながらにこう言ったよね。【私は、子供できないなら別れてくれ】って」
 茂男の言った一言で我に返った。
 それは私が懊悩して、搾り出したセリフだった。
 「美佐。子供なんていなくても、夫婦は家族になれるからね」
 私は結婚前に決して許されない過ちを犯した。あの時の私はどうかしていた。子供が出来ないにも関わらず、結婚を承諾してくれたことに対する悦びと、罪悪感とが綯(な)いまぜになっていた。私の中で感情をコントロールできなくなり、躁鬱状態になっていた。ただ、何を言っても婚前不倫の前では言い訳にしかならない。人間の一番醜い言葉がそこに存在するだけだ。

 私は、あなたが亡くなってから何度このシーンを思い出したことか。生前に二人であの修羅場について、話したことはなかったよね。夫婦の間では禁句だったのかな。10年間という短い結婚生活だったけど、茂男さん貴殿の亡き骸と共に、一夜の過ちに対する罪悪感を抱(いだ)いて私は独りで生きていくつもりだからね。

【了】



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?