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夏の忘れもの【掌編小説】

 「お客様、お忘れものにはお気をつけくださいね」
 或る夏の日、私は年配の運転士にそう言われた。夏になるとバス内の忘れ物が急に増えるらしい。その言葉はすっかり他人事だと思っていた私はフーンという感じでその声かけを気に留めることなく聞き過ごした。その翌日も、その次の日も私は通学で同じバスでしかも同じタイミングでバスに乗った。同じ年配の運転士から同じ言葉を掛けられた。そのうちに、少ししつこく感じるようになり、返事すらしなくなった。帰宅してそのことをお母さんに話すと「その運転士さんは、あなたのことを気にしているわけではないんだよ」と、いかにもあなたを思っていないと言わんばかりに突っぱねられた。私は、分かっていながらひどく傷ついた。運転士さんも仕事なんだ、と。

 また別の日、私は自宅に忘れものをしてしまい一本遅いバスに乗った。試験当日だったからか、何かのノートをみながらブツブツ呟いていたと思う。今日は運転士さんが違う、きっと気持ちが浮ついていたのだろう。携帯電話をバスの中に忘れてしまったのだ。バスを降りて、高校に到着してからスカートのポケットに電話が無いことに気がついた。
 【お客様、忘れものにはお気をつけくださいね】頭の中に優しい声が、虚しく響いた。こんな悔しいことは無い。年配の運転士が愛しく懐かしいと思ったことか。試験が終わり、私はどうすることも出来ず、バスに乗って終点近くにある営業所に向かった。誰かに伝えることも出来ないくらいショックを受けていた。営業所に到着して、なぜかあの年齢の運転士さんを探そうと思った。なぜか不思議と名前が「佐藤さん」だったと思い出したからだ。もう、いまさら恥も何も無かった。
 営業所に入ると、数人の職員がいた。残念ながら佐藤さんらしき人物は見当たらなかった。感傷的になりながらも、ズンズン進んでいくしかない。忘れものコーナーを見つけると、女性の担当者がいた。
 「いつ落としましたか? バスの発時間は?
バス停は?」 
 事務的で冷たい対応はとても見つかりそうな気がしなかった。私も淡々と事情を説明した後に、「よろしくお願いします」と力なく頭を下げた。どれだけ伝わっただろうか、と心の中で一人思った。営業所を出ようとしたその時だった。誰かがささやいたような気がした。虫かな、いや人間の声が私を呼び止めた。
 「お客様、お忘れものにはお気をつけください、と言ったじゃないですか」
 佐藤さんだった。
 何かの間違いだと思った私は、彼を二度見した。その美声は涼やかな笑顔と共に私の身体に染み込んだ。どう見ても40歳越えの年配のおじさんなのに、懐かしく、そして愛しく見えた。
 佐藤さんは私の携帯電話を大きな身体から出すように差し出した。
 「私のこと、うるさい只のおじさんだと思ったでしょ?」
 佐藤さんは満面の笑みで言った。全く嫌味の無い、純真な少年のような表情だった。
 「はい。おじさん、いや、佐藤さん、すみません。ありがとうございました!」
 私は邪心があったことを素直に認めた。うるさいおじさんだと思っていたこと、何度何度も説教のように言われてしつこいと感じていたこと。
 「では、私は次の運転があるので。また、バスをご利用下さい」
 最後に宣伝することを忘れず、佐藤さんはバスのほうへ小走りで向かった。

 だが、翌日から佐藤さんは見かけなくなった。別の運転士に佐藤さんのことを訊いたところ、8月末日に退職をしたらしい。私が営業所を訪れたその日だった。しかも、周りに理由を告げずに。私の携帯電話を拾ってくれた彼こそ、忘れものをしたのではないかとフト思ったのだった。

【了】

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