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春、髪ふりみだし

 この春、中学生になった長男。委員長に立候補したり、部活の見学で雨の中ずぶ濡れでサッカーをしたりと忙しいスタートを切っていた。
 そんなある日の夕方。いつもなら「ただいまー」と、まだ変声期を向かえていない軽やかな声が聞こえるはずが、玄関のドアを開けしめする音だけが響いてきた。
(なにかあったな)
ピーン。父さん、妖気です。と◯太郎ばりに勘づきつつ平静をよそおい
「お帰りー」
といつも通り声をかける。
 部屋から出て見に行ってみると、制服をハンガーにかけながら、うつむき加減の長男。
「遅かったね?疲れたでしょ」
声をかけると、頷く横顔から目に涙が浮かんでいるのが見えた。
 制服をうまくかけれず何度もやり直しながら泣くのをこらえている姿に、すぐつられて泣きそうになりながら長男を呼び寄せ並んで座ると
「疲れたよね。がんばったね。そりゃあ、疲れるよね。毎日初めてのことがいっぱいだもんね。」
背中を擦りながら声をかけると、無言でうなずき、泣きながら
「うん。疲れた」
と絞り出すように呟いた。
 「泣きたかったら泣いていいんだよ。お家では好きにしていいさ。がんばったよね。」
 しばらくすると、体育の授業が嫌だとポツリポツリと話してくれた。強制的に言われるのが嫌なんだと。
 お友達と何かあったかなとか怒られたのかなと想像をふくらませていた私は内心ホッとしながら
 「大人に上から言われる感じが嫌なんだよね。納得いかないことはやりたくないよね。」 
と慎重に言葉をかけた。息子はゆっくり頷くと
「うん。意味わからない。」
とこたえた。
「そうだよね。ただそれは、◯君が自分の考えが持てるようになったからじゃないかな。だからそういう納得いかないこと、理不尽だなと思うことは、むしろこれから沢山でてくると思うよ。」
私の言葉に、長男はよくわからないという顔をした。
「イライラしたりモヤモヤしたり、いろんな感情にぐらぐら揺れていいんだよ。そんな自分はダメなんて、ちゃんとしなきゃって思わなくていいよ。」
再び感情の蓋が開いたのか、ぽろぽろと泣き出す長男。
「成長してる証拠だよ。だから大丈夫。お家で◯君がイライラしてたって、妹達もお兄ちゃんは今日は疲れてるんだなってわかってるよ。◯君がどんなだって、いてくれるだけでいいんだから。」
家でも手伝いは進んでやり、妹達や私の世話までしてくれる長男。長女の不機嫌や反抗、次女のワガママも受け止めてくれる出来すぎた長男は、湧き上がる負の感情に振り回され持て余しながら、そんな自分を許せないでいるようだった。まだ中学生なのに。

 しばらくすると、夕飯を作っている私に普段通り趣味のゲームや今日あったことをひとしきり話し、妹達とケタケタ笑いながら夕飯をとる姿にホッと胸をなでおろした。
 しかし就寝の時間になると、いつも規則正しく早寝する長男が、
「今日は寝たくない」
ぽつりと呟いた。
「朝が来ちゃうから?」
こくりと頷く長男。
「わかるー。嫌だよね。いいさ、寝なくても。そんな日もあるよ。ゲームでもしちゃいなよ。」
そんな促し常識的にはよくないだろうけど、大人だって眠れない夜はある。そんな夜に真っ暗な部屋でうらめしやばりに、ぼうっと青白いライトに顔を照らしている私が早く寝なさいなんて、どの口がである。
ひとしきり遊んで満足したのか、いつの間にかすんなり眠ってしまっていた。

 そして翌朝。体育が嫌だ嫌だと私の後をついて回りながら、色々言う長男の言葉に頷きながら、何とか全員送り出した。
 「あー疲れた。」
誰もいなくなった廊下で深いため息をつくと、さてと洗濯物を干しにベランダに向かう。今日は仕事が遅番でよかった。おかげで、心に余裕を持って長男の話を聞けたなあと思いながら、洗濯物を干していたその時である。手には洗いたての長男の体操服…。
体操服は2枚ずつ買ったから、リュックに入れて持って行ってるよね…?うん。体育の授業があるのはわかってるんだから。持って行ってるでしょ。と自分を納得させ、再び作業に戻ろうとした。
 いや、しかし。数々の長男のやらかしが脳内を駆け巡る。
次の瞬間、私は長男の部屋に駆け込み、あたりを見回した。
あった!
ジャージと体操服が突っ込まれた袋が、床に放置されていたのだ。
「あーもう。」
思わず天を仰ぎ、袋を掴むと慌てて外に飛び出した。
あたりには、春の朝の柔らかな光と澄んだ空気。てくてくと通学していく小学生や立哨してくれている方の姿がみえるが、長男の姿はもはやなく。
ここから坂道を駆け下り、また駆け上り追いつくはずもない。どうするか。逡巡する私の目の端に、きらりと輝く姿が。
 長男のお友達!
きっと10年前ならそんなことはできなかったし、しなかっただろう。
しかし、40の音を聞いてしまった私には、彼が天使にしかみえなかった。
真っ直ぐ前を見て歩くお友達の前にダッシュで飛び出すと
「◯◯君!ごめんね!これ、◯◯が忘れていっちゃって。◯◯に渡してもらえないかな。」
むんずと袋を突き出した。

ここで、想像してほしい。通学、出勤中に、いつも通り歩いていたら、目の前に突然人が立ちふさがる。
 その人は、メデューサか山姥のような髪をふり乱し、どすっぴんのさらにアレルギーで片目瞼が腫れたお岩さんのようなババアで、よれよれのトレーナーにすりきれたズボンにサンダルという薄汚れた格好をしている。
何と恐ろしい。これが夜なら悲鳴を上げて逃げ出すところだろう。

 しかしお友達は、この目の前の妖怪が早口で話す言葉から友達の名前を聞き取り、渡された袋をそっとのぞき、そこに体操服があるのを確かめると、瞬時に全てを理解して
「わかりました!」
と澄み切った目で私を見つめ丁寧にこたえてくれた。
妖怪ふりみだしババアは、そんなお友達に「ごめんね、ありがとう。」
と丸い背中を更に丸くすぼめながらペコペコと頭を下げて家に逃げ帰った。

 何とステキなお友達。朝からこんな不快な目に合っても、ちょっとびっくりして仰け反りそうになっても、そんなのおくびにも出さず、紳士に対応してくれるなんて、何てステキなんだろう。
 いやしかし、普段通りメイクもヘアセットも済ませていたら、こんな迷惑かけずにすんだのにと思うと申し訳なさすぎて仕方なかった。
 早速スマホをつかんで、お友達のお母様にポチポチと事情説明からお礼とお詫びの連絡を送る。
 あと10歳若かったら走って持って行く自信があったのに。しかし今の私では膝はガクガク心臓と肺がヒューヒューだよになるのは目に見えていた。
 もう。春、髪ふりみだし。今日から身体鍛えようと決意する朝だった。
 


 

 


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