見出し画像

僕たちは希望という名の列車に乗ったーDas schweigende Klassenzimmer (2018)

雑誌で好きな俳優さんが紹介していた映画。

家族と一生会えなくても、自由を求めて列車に乗る決意をした18歳の生徒たち。
18歳だから難しい決断なのか、18歳だからこそできた決断なのか。

18歳、曖昧な年齢。
子どもから大人になる過渡期。

最近、「知らない」からできることって多いなと感じる。

苦労とか、怖さとか、寂しさ、悲しさとかを知らないと飛び込める世界やできることがあると思う。
1年の留学生活の終盤に差し掛かる今、この一年自分に降り掛かった大変だったこと全てを知った上で同じ勢いでこの留学を決断できるかと言われたら、できないと思う。

あと、社会情勢への興味が最近湧いている。興味というか、知っておかないと、敏感でいないといけないなと思う。なぜだろう、周りの友達の影響か、異国で生活しているからか。これといったきっかけは無かったけれど、じわじわと。

ドイツはヨーロッパでも治安が良いと言われているが、駅など人が多いところでは
必ず物乞いをしている人を見かける。そのうちの多くの人が足や腕が無いなど、身体に不自由を抱えている。目を逸らしたくなるような見た目の人も。
その人達がなぜそうならなければいけなかったのか。
戦争?事故?国から何か補償は無いのか?
と、社会で起こっていることが何か自分と身近なものに結びついている実感を得た。

大学でミヤシタパークの開発についての講義を聴くまで、日本にいるホームレスの人たちについても深く考えたことがなかった。
ただ働きたくない人たちなんだな、と。働きたくても働けないとは考えなかった自分はなんて自己中心で生きてきたのだろうとその時ふと思ったのを覚えている。

そしてその人たちにお金や食べ物を通りすがりに与える人も頻繁に見かける。
私がここで1ユーロでも与えれば、その人はパンが買える。シンプルに考えれば、与えることで誰かの役に立てる。
けれど私が与えた瞬間、give と take の構図が出来上がってしまう。
いいことをした、とそれでいい気になるのも違う気がする。
そんなのは言い訳で、ただ関わりたくないと思っているだけなのか。
とぐるぐる考えたり。

いくら考えてもまとまらないけれど、そんなことをずるずると考えさせられた映画。
歴史、社会、もっと勉強しようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?