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土佐のてっぺんで過ごした中学時代

5月の連休を利用して、広島の実家へと帰省した。
朝起きると、家族がNHKの連続テレビ小説の「らんまん」を見ていた。

ドラマの舞台は高知県。
主人公やその家族達は、「土佐弁」で会話をしているのを聞いて、懐かしく思った。

私は中学時代の2年間、高知県の大川村という場所で、山村留学生として、生活していた事がある。現地では、土佐弁を日常生活で自然に学んで、私も土佐弁で話した。

そこで、何回かに分けて、私の高知での中学時代を振り返りたいと思う。

私は小学校を卒業後、地元の中学校ではなく、高知県の大川村にある大川中学校(現在の大川小中学校)に山村留学へ行く事になった。小学校時代に、私の特性(のちに注意欠陥多動性障害@以後ADHDと診断される)ゆえに、周りからいじめを受けていたためである。

私が、留学した大川村は、標高1000mの山の上、四国のほぼ中央に位置している。分かりやすくする為に、以下Q&Aでお伝えする。

Q:山村留学の受け入れ対象年齢は?
A:小学校5年生~中学校2年生まで
※3年生は継続のみ可能(私の場合は、広島での高校進学の関係で2年で修了)

Q:当時の留学生の人数は?
A・1年目は、男女2人。
  2年目は、男子3人と女子3人の6人。

Q:全校生徒や学年の人数は?
A:当時の全校生徒はおよそ30人程で。私のクラスは6人。

Q:暮らしていた場所は?
A:「自然教育センター白滝(以後、寮とする)」という場所を寮として、他の留学生や指導員の方々と生活していた^^
https://www.sirataki.or.jp (自然教育センター白滝のHPはこちら)
 http://www.vill.okawa.kochi.jp/life/dtl.php?hdnKey=1223&routekbn=S   
(大川村の山村留学について、詳しく知りたい方はこちら)

Q:実際の留学期間は?
A:1996年4月~1998年3月までの2年間
 (中学1年~2年)

Q:寮ではどんな生活?
A:身の回りの事(掃除、洗濯、料理以外の食事の準備など)は自分でやらないといけないし、その上で、学校の勉強も部活もしないといけなかった。

Q:親の様に世話をしてくれる方はいた?
A:基本的に教育委員会の方が3人交代で、指導員として面倒を見て下さった。

Q:1日のタイムスケジュールは?
A:6時半には起床。7時半までに朝食を済ませ、8時発のスクールバスで登校、
中学校で9時から17時半まで授業と部活。18時半ごろ寮に帰り、夕飯を食べて20時ごろから自由時間(留学生同士で宿題など)22時ごろ就寝。

Q:寮から学校までの距離は?
A:寮から、スクールバスの停留所まで、徒歩で約15分。スクールバスで学校まで約20分。寮を出発して中学校に到着するまで、40分近くかかる。

Q:部活はあったか?
A:部活がバドミントン部のみのため、生徒全員がバドミントン部に入っていた。練習メニューがとてもハード(ランニング、ダッシュ、筋トレなど)で常に体を動かしていた。

Q:家族と連絡は?
A:原則的に電話はNG(特別の用事がある時はOK)で、手紙オンリーだった。

Q:留学期間中に帰省出来た?
A:基本的には夏休み、冬休み、春休みは帰省していた。

Q;:途中で帰りたくなったことは?
A;何回もある。中1の春、入学式が終わって、両親が地元に帰って、一晩中涙が止まらなかったのは今でも忘れられないなあ^^;当時は見えてなかったけど、留学仲間や周りの人達のサポートのお陰で2年間の生活をクリアできた^^

Q:留学生活や学校生活の中で、一番印象に残っていることは?
A:中学二年の時に行った、石川県河内村(現在の白山市)への研修旅行と、京都と大阪への修学旅行。河内村でスキーをして、現地の人達の家にホームステイをした事がとても楽しかった。そして修学旅行でクラスメイトと吉本新喜劇を見たり、京都の清水寺に行って初めて友達って良いなと思えた🎵

この留学生活がなかったら、高校や大学を卒業出来ていなかったし、自分が健康に生きることも出来ていなかったと思う。この2年間で、身の回りの事を自分でやる事を、失敗しながら、教わった事は一人暮らしの基礎になっている^^

社会に出てADHDだとわかった時にも、当時指摘されていた事の意味を、心から理解出来たし、心の成長にも繋がった。

この次の話では、小学校時代の話を交えて、何故自分が山村留学に行く事になったのかを詳しく掘り下げていく。

今回は、私が好きな土佐弁で締める!
「えいもんはえいきね👍(良いものは良いからね👍)」


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