見出し画像

土佐のてっぺんで過ごした中学時代 その2


今回は何故、地元の中学校に進学せず山村留学に行く事になったのかを話す。

私は、27歳で発達障害の1つの注意欠陥多動性障害@以後ADHDと診断をされた。
(会社や学校で、どんな事で困っていたかは、過去の記事に載せている。)

今回は、発達障害があり現在、必死に頑張ってる本人さんや、子育てに奮闘する親御さんに、
「発達障害の特性ゆえに、周りと上手くいかなくて困ってても、こう言う進路もあるよ😊」
って言うメッセージを込めて記事を書く。

小学校時代、体も弱く周りから、怒られたり虐められたりする事が多かった。
虐めやトラブルは、学校に限らず、習い事や行く先々で起こっていた。

虐めや、トラブルの原因はこんな感じだ。
1.自分が思った事をオブラートに包む事なく言葉や態度に表す。
2.宿題をし忘れたり、忘れ物がかなり多い。
3.約束を守れない。
4.人が言った事を真に受けやすい。
これらの特性が、1番強い時期で、小学校に上がってすぐくらいから、周りは私の対応に、とても苦労していた。

こう言う状況で、小6の秋ごろから、両親や家族は私の進路について頭を抱えていた。
「この状態で、地元の中学校(以後は二中)に行ったら、間違いなく大変な状況になる。(酷いいじめに遭い、立ち直れなくなる) 」
と言う認識で、私も含めて一致していた。

そんな中、母親は図書館で山村留学制度についての本を借りてきた。
母親「こう言うの(山村留学と言う制度)があるんだけど、(私らが現地に)電話して面談もしてくれると言ってたけど、行く気はある? 」
私「うん!行く!」

私は、「この状況を変えられるなら」と言う気持ち一心で、面談に行く事を決意して、家族と現地に向かった。

大川で1番始めにお会いしたのが、キョウコさん。
面談に来た私達は、のちに自分が2年間生活する事になる施設に泊まった。

キョウコさんは、施設の職員の方で遠方から来た私たちに対して、とても優しく接して下さり、美味しい玄米茶を淹れて下さった。

この時、私の心は疲れ切っていて、お茶の味が心に沁みた事を、はっきり覚えている。
そして、山の空気がとても美味しく、施設の方は、とても優しく対応して下さった。

当時小6だった私は、
「受け入れて下さるなら、ここで頑張ろう! 」
と心に決めた。

面談は無事に終わり、数日経つごろ、大川村の教育委員会より
「貴方を大川村のふるさと留学生として、受け入れます。 」
と言う趣旨の書類が、家に届いた。

この時、私の96年4月からの進路が、決まった。

しかし、私にとっての本当の試練が、これから始まる事になろうとは、この時はまだ知る由もなかった。

知らない土地で、親と離れて暮らす事、身の回りの事を、自分でやらないといけない事が、どう言う事かを、私は全く理解出来ていなかったのだ。

つづく

これは、余談だが、去年地元に帰省した時、小学校時代に仲の良かった同級生の男子に、私が社会に出てからの事や、ADHDの特性がある事を話した。

それを聞いて、彼はこう言った。
「その状況なら、二中に来なくて良かった!俺らの時は学校がかなり荒れてて、山本くんが来ていたら、確実に虐めの標的になってたと思う」と。

現在、小学校時代の数人のクラスメイトとは、和解して話が出来る様にはなった😊
ありがとう!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?