物が要らなすぎて泣けてきた話

結婚生活を通して私が開眼したことといえば「物を減らす」ということ。

新婚当時は家事をいかに素敵にこなすか、インテリアをどう素敵にしつらえるか、そんなことでうきうきしていた。
そんなうきうきも束の間。すぐに息切れしてしまったのだ。

仕事、家事、プライベート、現代人に時間はいくらあっても足りない。
あっという間に私は家事に費やす時間を楽しめない人間になってしまった。

とにかく効率的にしたい。
管理するもの、世話をする時間、悩む時間、家事に費やすあらゆる時間を1秒でもいいから縮めたいと躍起になった。

本多さおりさん、やまぐちせいこさん、やましたひでこさん、ゆるり まいさん、佐々木 典士さん 収納や断捨離、ミニマリストの価値観にどんどん魅了されていった。

新婚家庭にはあらゆる方面からお祝いだお礼だと物が流れ込んでくる。
逆もまた然り。

一方、そんな奮闘からほど遠い義母はひっきりなしにあれやこれやと贈り物を我々に投げ込んでくれる常連だった。

その多種多様さから見てとれるのは「ああ。。きっと私たちが何が好きだったり必要だったりがよくわからない、だけど何かしてやりたい、気にかけているという思いを贈りたい(もしくはただ買いたい。。。?)気持ちからなんだろう、、、」という混乱加減だった。

実の親も同じような物だ。
親世代のそのまた親の世代。物がないトラウマを抱えた親たちを持つ子の世代だ。
「親たちがしてくれたように、、、、私たちも目一杯何かを持たせなくては。。。!」

気持ちはよくわかる。

焼け野原を想像することしかできないが、当時の暮らしを思えばこんな戯言は不謹慎がすぎるのもわかる。溜め込む人の、冗談ではすまない心の傷や習性も。

自分の親を諌めるのにもなかなか苦労した。
「消え物がいいよね、」の思考に至ってもらうまでにはさまざまな葛藤があった。

しかし、結論から言わせてもらえば、とにかく要らない。要らないのだ。
どんなに贈り物シーンでよく目にする菓子類でも(彼らに比べてというだけの)若い家族とて食べるには限界がある。配る先にも限りがある。

夫に度々「フードバンクを紹介してみては」と提案するもその言葉は届くはずもなく。

贈り手が費やす時間も労力も金銭も申し訳ない。どうしてここで調整を図ってくれないのか。

とにかく何かしらが増えることで比例する家事の時間はそのまま私の人生と反比例する。大袈裟に言えば物をもらうことで私の人生が削られる。
食べそびれる、腐らせる、使えない、場所をとる、埃をかぶる。
「捨てればいい」

なら贈る前にその人が捨ててくれ。

よっぽど自信がない限り物は贈らないでほしい。
私がとんでもなく贅沢嗜好だとかいう話ではない。
私は最小限に持ちたいのだ。
溢れてこまるくらいなら、足りなくて代用する方がよっぽどいい。

そんな私の不満は周囲に理解されずに宙ぶらりんのままだった。

数年を経て。

今度は子供に泣かされるハメになる。
一人っ子ということも多少手伝い、あれやこれやとあちこちから「玩具」が集まってくるのだ。
歯医者に行けば「ご褒美」
チェーン店に行けば「おまけ」
本人を連れて行けば予定にない「コレ買って」
シーズンごとに園でもあれやこれやの「ご褒美」
クリスマスに誕生日に子供の日。年がら年中、新品やお下がりが次々に増えては埃をかぶる、もの、物、モノ。
本人のブームがさった頃にこっそり捨てる、リサイクルに出す、貰い手を見つける、が間に合うはずもなく。

ただでさえ季節に応じて衣類だ、制服だ、水着だ靴だと子供ができてから星の数ほどのマネジメント業で手一杯なのに。
衣食住だけでさえてんてこまいなのに。

どうしてどうして帰宅してからYoutubeにしか世話になっていないのに埃をかぶったおもちゃがまだ「要る」というのか。

どうして私はああでもないこうでもないとネットを徘徊しては睡眠まで削って「こどもが手に取りやすい収納」なんかに人生を費やしているのか。
結局何度となくトライ&エラーを繰り返したところでこどもはその時のブームしか手に取らず。あとの3軍4軍は永遠に埃を被り続けるのだ。

そんな日々に嫌気がさした頃、ついに2人してハウスダストのアレルギー症状が悪化した。ここ最近の乾燥も手伝ってだろう。

堪忍袋の尾が切れるとはこのこと。
私はビニール袋片手にかき集め始めた。

もうずっと前から家が嫌いだ。
なのに前よりもずっと長い時間家にはいないといけない。
独身時代のように自由に出入りができるでもない。
あれこれと雑事が終わってホッとひといきついたところで、まるで全方位からto doリストを突きつけられているような感覚だ。

自分の家なのにまるで休めない。

少し前まで私はこの感覚にすらしっかり気が付いていなかった。

家が嫌いだ。

あれこれ飾ったり足したりして誤魔化してきたけど、嫌いなんだ。

自分のものはどんどん捨てられる。
一番要らないのは衣類。仕事着は制服化してアウターも数えるくらい。
プライベートだって年に数回友人に会えればいい方だ。
「オシャレ着」を葬り去ってしばらくになる。

なのに子供のものは新旧含めて増える一方。
こうなってくると悲しいかな、贈り手にまで怒りが湧く。

どうして。
どうしてこんなに細かい部品がいっぱいのものを贈るの。
本人が管理できるわけがないのに。
どうして本人にヒットしないのに。
どうして物なの。

ひとつも子供が触りもしないのに義理だけで座っている埃を被ったパズルゲームを目にすると泣けてきた。

どうして私たちの健康より大切にされないといけない物があるの。

私はもっと子どもにいろんな体験をさせてやりたい。
ちまちまと家の中を毎日毎日片付けて磨いて、ただ右のものを左に入れ替えて子供との時間が終わっていくなんて不本意なのに。
全身が学びの感覚で研ぎ澄まされている今しかできないことを子どもに与えたいのに。
家の中は何もなくていい。
清潔が保てて外での刺激を振り返ったり、しっかり休める安心で安全な空間にしていたい。
物に埋め尽くされて人間が遠慮がちに生活する空間なんて真っ平だ。

ものを贈ろうとしている全ての人に言いたい。
映画のチケットは?
遊園地のチケットは?
お掃除のサービスは?
マッサージだって。
どこだっていいギフトカードは?
食事券だっていい。
なんなら手紙だけでもいい。

とにかく「物」を贈るから離れて欲しい。

もっと物に代わる気持ちの贈り方があるはずなのに。

キラキラしたインテリアに翻弄されるのはやめた。
どんなに収めても隙間がある限り埃が溜まる。
素敵なインテリアみたいにかわいい子供のおもちゃが飾られている児童館みたいな自宅に憧れるけど、それよりとっとと家事が終わって外のおもちゃで遊びに出られる機動力を養う方が自分の子育てには合っている気がすると悟った。

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