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「中道」の難しさ

朝一緒に散歩している友達が、先日転んだ。
足首を捻挫したようで、足を付くと痛みが走るそうだ。
友達はしばらく散歩を休むことにした。

どうして友達は転んでしまったのだろう。
そりゃあ、歩いていれば、生きていれば、
何かにつまづいて転ぶこともある。
そんなこともあるさ、ということなのだろう。
でも、私は転んだ理由を少しだけ知っている。
友達は、最近仕事が立て込んでいるようで、とても疲れていた。
以前より足もあまり上がらなくなっていて、
よくつまづいたり転んだりしていた。
少し休んだ方がいいんじゃない?
これじゃあ、本末転倒だよ‥
控えめに伝えてはみたが、本人はとてもやる気に満ち溢れていた。
せっかくいい習慣が身についたのに、
ここで手を抜くわけにはいかない、と。
とても真面目な人だ。
けれども結局は、大きな怪我によって休養を余儀なくされた。
今回のことは、どうやらよほど身に沁みたようで、
今後は、自分との対話を疎かにせず、もう無理はしないと言った。

今回のことは、私に大きな気づきを与えてくれた。
結構自分に甘い人生を歩んできた。
継続する、ということがとても苦手だった。
だから、4年前に朝の散歩を始めた時、
とにかく継続することが目標だった。
習慣化の目安として、28日、3ヶ月、6ヶ月、と段階があると言われている。
この段階を一段ずつクリアするごとに大きな喜びとなった。
このひとつの成功体験は、やがて大きな自信へとつながっていった。
習慣化ができる人間になれたと、友達と喜びあった。
いつしか、継続するという「目標」が「目的」に変わってしまっていた。

どんなことにも、落とし穴はある。
私はまさか、この神聖だと信じていた「良いことの習慣化」にも
落とし穴があるとは思ってもみなかった。
私たちは、やめられなくなったのである。
少しでもサボってしまったら
また元の自分に戻ってしまうんじゃないかという恐怖と、
習慣化できるようになった自分への、奢り。
ちょっとした中毒感を味わっていたのだと、今になったら分かる。

仏教に「中道」という言葉がある。

"「中央の道」を意味し、
 極端な行動や思考を避け、均衡と調和を保つ生き方。
 つまり、過度な自己抑制や苦行を行うことなく、
 また、放縦や過度な欲望に走ることなく、
 心地よいバランスを保ちながら生きること。"

お釈迦さまも、苦行で悟りはひらけなかったそうである。
「中道」は本当に難しい。
中道を知るには、対極を経験して初めて分かることもある。
人はややもすると、ついどちらか片方に偏りがちになる。
そして、近視眼的な見方になればなるほど
自分のいる位置が見えなくなってしまう。
だから、常に自分というものを俯瞰して、
行きすぎていないだろうか、偏りすぎていないだろうか、と
振り返ることが「中道」を知ることに繋がるのだろう。

友達の怪我は、身を挺して「中道」の大切さを教えてくれたのかもしれない。
習慣化できたことに舞い上がり、少し酔いしれていた私に
ここらでちょっと立ち止まって、
「目標」ではなく「目的」を思い出しなさいと教えてくれた出来事だった。

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