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30歳1日目の朝に、20代を振り返って。

2023年11月8日。今日は30歳の1日目。
朝、目が覚めると、「私の人生の20代が終わった」という事実に、少し胸が痛んだ。

後悔はなくても、人が勝手に作った区切りだとわかっていても、もう20代に戻れない切なさがある。

まだ起きあがる気がしなくて、ベッドの中で機内モードを外すと、大切な人たちから誕生日メッセージが届いている。心がじんわりとあたたまる。大好き。会いたいな。

隣をみると、彼がぐーぐーと寝ていて、安心する。

部屋へ行くと、夜中に用意してくれていたらしいメッセージカードとチョコレートがおいてあった。自分の口元が綻ぶのを感じた。

庭にでて、清々しい空気を吸い込んだ。大げさな私は、30歳初めての深呼吸だ!と感慨深く思う。

2階のキッチンにあがると、ここもまた30歳おめでとう!と、テーブルがお花などでデコレーションされている。冷蔵庫にはケーキが入っている。

私は大切な人たちに、大切にされている。

心があたたまって、ふわっと膨張していき、寝起きに感じていた痛みは消えていった。

30代の美しい幕開けを、ありがとう。



1週間ほど前、弟から突然LINEがきた。

「20代でやって良かったこと、やっておけばよかったことを教えて」と。

そうか私は、いわゆる20代でするべき10のこと、みたいなのを書く権利を得るんだ。と、不思議な気持ちになりながら、27歳の弟の残り3年に何か役立てるのか考えてみた。

この10年間は変化の連続で、アイランドホッピングのようだった。

やってよかったこと。
留学。旅。料理教室に通う。就職。転職。起業。海外暮らし。フランス語。
演技。両親への感謝の手紙。おばあちゃんへのプレゼント。勉強全般。

やっておけばよかったこと。
フランス語。SNS。

細かく書き出したらキリがないから、こんなところかなあ。

集約すると
「自分の人生に妥協しないで、常に改善させること」
「感謝すること」

の2つになるかもしれない。

もっとこうだったらいいのにな、と思うことがあったら、そうなるように行動をする。変化を起こす。

そして、どんな時も周りで誰かが助けてくれているから、感謝する。

この10年は、自分にとって、よりワクワクする方へ移動していく旅のようでもあり、違和感を取り除いていく片付けのようでもあった。

直感がおりてくるときはスムーズにすすむけれど、そうでない時は正解を求めて悩むこともあった。直近一年は20代で1番悩んだかもしれない。

まだまだ自分の心の声100%の生き方ができていないし、「こうあるべき」と「本音」が、けだるいバトルを続けている。

そんな道の途中だけれど、はじめに見つけた島に居続けなくてよかった。航海してきてよかった。と、それはそれは強く思っている。

そして、どこかにある答えを探す、という自分探しモードから脱却し、「自分の人生を自分で創る」姿勢の方が大切だと思うようになった。

ちなみに、やってよかったこと、やっておけばよかったこと、その両方に「フランス語」と書いたのは、「もっと早く始めておけばよかった」ということ。

「フランス人の彼とは英語で話が通じるし、ちゃんと勉強する暇がない。」

というのが私がなかなか始めなかった理由だった。

学ぶなら、「しっかりと」学ばないといけないと思っていた。しかし、彼と付き合って5年を過ぎたあたりから、さすがにこのままだといつまでたっても身につかない、と「週1回40分のオンライン授業」を始めた。

授業以外はほぼ勉強せず、何かを学ぶのに週40分だけなんて。そんな中途半端なやり方は初めてかもしれない。

けれど、やってみると変わるものだ。

話せる単語が少しずつ増え、レストランのメニューもわかるようになり、大好きなフランス映画『アデル ブルーは熱い色』を見直してみると、理解できる言葉があった。

あぁこれでも、ゼロに比べたら断然マシ。もっと早く始めておけばよかった!

やるならちゃんとやるという真面目さが、逆に始めるのをいつまでも先延ばしてしまうことがある。これはきっと、弟への教訓というよりも、私から30代の私へのメッセージだろう。

いつしかSNSで話題になっていた90歳のおばあちゃんの話も覚えている。

「60歳の時にバイオリンを始めたいと思ったけれど、今更遅いと思って始めなかった。いざ90歳になったとき、あの時始めておけば30年も続けていられたのに、と後悔した。」というエピソードである。

これを聞いたときに、うわぁ。。。と後悔を疑似体験した。30年間何かを続ければ、どうやったって上達するだろう。90歳でバイオリンを弾くおばあちゃんになれたら、自分を誇りに思うに違いない。スキルは増えれば増えるほど、人生が豊かになる。

ちゃんとできなくてもいい。だから今から始めよう。とりあえず触れてみよう。三日坊主にならないように、週1回でも月1回でも先生をつけて。そう、私は私の肝に銘じる。

やっておけばよかったことのもう一つにあげたのはSNS。なぜなら、SNSのおかげで得られるチャンスや信用の大きさを知っているから。それなのに、まともに更新ができていない。

しかし、20歳に時を戻したところで、自分が頻繁に発信できるかどうかはわからない。

私は繊細で、細かいところが気になって、発信にストレスを感じやすい。どんどん更新できる人は、肝が据わっているのだろう。

まあそれでも、ストレスを克服している人はいて、自分にあった方法はある。おそらく私にあっているのはnoteだと思う。

文章は、写真や動画と違って、あとから上書きができるし、目に映らないことも表現できるから。本当は毎日4000字書いても苦ではないほど、私の頭の中は言葉であふれている。

そう気づきつつあるので、こうして30歳の1日目にとりあえずnoteを書いています。

さて、20代を振り返るまとめとして、自分の中での1番の変化を話そうと思う。

それは、この世に「正しさ」は存在しないと、気づいたこと。当たり前のようだけれど、腹落ちさせるのは難しい。

私は小さいころから正義感が強く、褒められることが好きで、大人に正しいと思われたかった。

兄や弟と喧嘩になると、いかに自分が正しいのかを論理的に母に説明することによって、優位な立場にたつのが得意だった。母は頭が良くて理不尽なことをしない人だから、ちゃんと説明できれば理解してもらえる、と安心した。

学校では、どうしたら良い成績がとれるか、どういう生徒が求められているか、よくわかっていた。

しかし、そのまま大人になってみると、そんな「正しい」選択が、たった一面であったことに気づいた。

正義の反対は、もう一つの正義。という言葉を聞いたことがある人も多いと思う。

絶対的な正しさなどない。事実が一つあっても、その解釈は無限大である。じゃあ物事をどう判断すればいいのか。

それは結局、自分がどう感じるかにすぎない。

うちによく遊びにくるある友達は、ビールを飲んだガラス瓶を分別せずに、普通のごみ箱に捨てる。屋外ならまだしも、家の中でそんな行為を見たことがなかった私には、衝撃だった。

彼がいうには、フランスのリサイクル制度は見せかけだけで、実際は全部一緒にして埋め立てている可能性があるのだとか。そんなドキュメンタリーが話題になってから、分別する意味を感じなくなったという。

たしかに、その無力感は理解できる。嘘はたくさんあるから。私もメディアや政府の言うことをあまり信用していない。

でも、私たちの住んでいる地域が実際どうなのかは、わからない。

リサイクルされている可能性もあるし、されていない可能性もある。私は普通のごみ箱には捨てたくない。何より自分の感覚として気持ち悪いから。

結局、どこに自分の美意識があるのかなのだと思う。

その感覚は、生きてきたなかで身につくものでもあり、そこに絶対的な正しさは存在しないから、人を変えようと説得はしない。

(うちに遊びに来た時は分別してもらっているけれど。私がゴミ出しすることになるからね。)

あらゆる社会問題について学び、スクール運営という形で、啓蒙の一環を担っている立場ではあるけれど、人は人だと思っている。

そして、人が本当の意味で影響を受けるのは、誰かの生きる姿だと思う。

私は祖母を見ていてそう感じる。92歳の祖母は、ああしなさい、こうしなさい、とは決して指示してこないけれど、本人の姿勢に、自然と憧れてしまうのだ。(詳しくはこちらの投稿に記載)

私はこれからも、自分が尊敬している人たちの考え方、生き方を参考にしながら、自分を成長させていきたい。

他人の目を気にするのではなく、正しいかどうかでもなく、自分がどうしたいのか、の判断で。

最後に、私が30歳で人生初の試みとするのは、1on1の対話をサービス内にくみこむこと。

個人的に、人と話すことによって成長したこと、考えが変わったこと、背中を押されたことは数知れない。

だから一対一での本音の対話が、どこかの誰かの何かを励まし勇気づける時間になればいいなと思って、2024年のスタートに向けて準備しています。

ほかにも今年やりたいことはたくさんあるけれど、書ききれないから、それはまた今度に。

美しい出会いのある1年にしたいな。

30歳も、どうぞよろしくお願いします。


















ありがとうございます!