語られている芸術って、
なぜ裸婦ばかり描きたがるのか、
なぜ破壊的な表現ばかり女性というモチーフにしたがるのか。
女ばかりとか男だってとか、
まるで損ばかりして生きてきたというような、
とにかく認められたいと示唆しているような。
そんな言葉で溢れているけど。
私が美大時代に経験したヌードデッサンは女性だった。
でもそれが曲線美だとか、女性で安心だからとかそんな言語化できるようなところに筆はなくて、
もっとも静寂の中に走らせる鉛筆の音だとかいう緊張感ばかりが、あの白い部屋には溢れていた。
その私のデッサンにはまるで女性という、現代の語られるような芸術の美しさはなかった。
腰をたどる線は細々とし、表情も素直に汲み取れない。経験の浅さ。
だけれども教室を出た途端、肺がきつくなって息が上がるような、呼吸をして、
そこで、自分の存在を、女性を通して体感した。
そういうことなんじゃないのかな。
多様な批評がある。賛同もできる。
けれども意見を聞いて処理する空間(どう処理するかはさておき)が、
あまりにも狭い人が多いんではないかなと思ってもいる。
体験なんじゃないのかな。
完成した絵が、その絵だけが絵なのではなく。
絵を描く、その過程にある作者の体験まるごとが、作品なんではないか?
作る過程の、息がどうしようもなく吸えなくなって、苦しみながら向き合う時間や、
おなかが大きな音を鳴らして吐いてしまいそうなほどの空腹に襲われても、
見ることも手を動かすことも少しも止められないような、目の前のモチーフに魅了されている時間とか。
訳も分からないものを分からないなりに理解したくてツールとして創るだとか。
どう解釈しようが、それらの作品に惹かれたら、作者と作品を通して繋がれる。
そんなんが芸術の一部であってもいいんじゃないかなと思うんでした。
いろんな角度で、作品の内部を覗いてみても、面白いんじゃないかなって。すべて、個人的意見です。
なかなか、極端な意見かもしれないです。
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