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EU拡大と歩んだ20年

こんにちは、

心がヨーロッパに引っ張られて。
言葉について書いてきたnoteですが、書く言葉はなかなか見つかりません。

ソ連崩壊後30年。
その大部分、1996年から通算20年ちょっとの間を、(NATOの東方拡大と無縁ではない)EUの拡大とともにその恩恵を受けてドイツで過ごしてきました。

ヨーロッパで戦争が起きたこと、
プーチン大統領の無謀ぶり、

これら以上に衝撃だったことは、
私自身の過去20年間を根底から覆されるような経験のない感覚です。

それは、
信仰を失った時がこんな感覚かなと思うような(信仰ないのですが)、
地震でもないのに、グラグラするような(病院行け?)、そんな感じです。

それともただの更年期障害でしょうか・・?

そんな自分の動揺に悠長に付き合っていたら投稿が早速遅れましたが、今回は私が何故ここまで個人的なレベルでロシアのウクライナ侵攻に参るのかについて考えたことも含めて、そしてやっぱりまた言葉について書こうと思います。

ヨーロッパ人のマルチリンガルは必然か

ここ数日、メディアから聞こえてきたのはこんな言葉でした。

『君達の中にも戦争を止められる人がいる』
ウクライナのゼレンスキー大統領がロシア国民へロシア語で訴えた言葉。

『ロシアは戦争をしていない』
駐日ロシア大使ガルージン氏が日本語で述べた言葉。

『世界第四の武器輸出国であるドイツなのだから』
自国への武器の供与を駐独ウクライナ大使メルニク氏がドイツ語で懇願した言葉。

『平和には代償を伴う』
NATOのロシアへの経済制裁内容について、ルクセンブルグ首相のベッテル氏がドイツ語でインタビューに応えた言葉。

これらは、話者の母語ではない言葉で語った一部です。上記のゼレンスキー大統領の発言は母語ですが、彼はウクライナ語を大統領になってから勉強したとか。
母語以外の言語を複数、外交レベルで操ることのできるヨーロッパの政治家たちは、敵国や同盟国に対して時に相手の言語を用いて自らの言葉で意思表示し、語りかけます。

当然ながら、相手の母語を話せさえすれば相手の心に届くというものでもありません。
ウクライナ侵攻に関するロシアの見解を述べるガルージン駐日ロシア大使の、完璧な日本語が全く心に響いてきません(笑)。
逆に、それぞれの国益はあれど最後に大切なのは心だと言った、コルスンスキー駐日ウクライナ大使の英語の方がよく響いてきたほどです。

さて、ヨーロッパでマルチリンガルの人が多いのも、積極的に隣国と関わり相互に学んできたからであり、決して国境が地続きであるという地理的環境要因によるものだけではありません。ヨーロッパの国々は第二次世界大戦後、相互理解のためにかつて敵対した両国間での人材交流を積極的に推し進めてきました。
国境があたかも県ざかいくらいにしか感じられないような、ヒト・モノ・カネが自由に行き交うヨーロッパの現在があるその裏には、言語習得を含む相互理解教育に一般市民の多くの時間と労力が費やされてきたのであり、一朝一夕に成し得たものではありません。

そして今、そんなヨーロッパで再び戦争が起きています。

NATOの東方拡大が今回のロシアのウクライナ侵攻の一つの要因と言われていたりしますが、より市民に身近なEUの東方拡大の側面から、私が体験してきたヨーロッパについて少し書いてみようと思います。
これは、プーチン大統領には全く違う景色として映っていたヨーロッパの30年です。

1990年代、東欧に触れて

1990年代後半、当時10代後半だった私が、その後通算20年強に渡ってドイツから見てきたヨーロッパの時代は、軍事・経済同盟圏の拡大の時代だったと言えます。この間、15カ国が新たにEUに仲間入りしています。
それは、90年代後半から2000年初頭に社会に出て、その後EUの東方拡大とともに産業・学術・政界などそれぞれの分野で仕事をしたり家庭を持ったりした、今40代のドイツ人たちが見てきた景色と重なります。

ソ連崩壊から10年も経っていない1990年代、ドイツにいた私は初めて、東欧の人々に触れました。
あるプロジェクトで滞在していた街で、多くの知己を得たのは、まだEU加盟前のポーランドやチェコからの学生たちでした。
未熟ではあったものの戦争や平和について毎日語り合う機会に恵まれました。
何よりも、西側の文化を貪欲に吸収しようというオープンなエネルギーと冷戦終了後の一種の開放感が強く印象に残っています。

2000年代、体制を違にした同世代と

そしてEU加盟国が最も増加した2000年代初め。
旧ソ連だった国々から多くの人々がドイツにやってくるようになりました。

東欧の女の子のメイク、濃い。

そんなこともよく言われていました。実際に出身のおおよその検討がついたものです。これは、冷戦時代を過ごした東欧の若者の環境が西側のそれと大きく違っていたことを象徴的に表してもいましたし、ドイツ再統一、ソ連崩壊からまだ10年そこそこというところで、多くの旧西ドイツの若者たちにとってもまた、東欧諸国から来る人々との出会いは新鮮な経験だったのです。

当時再びドイツにいた私は、同世代の旧東ドイツ出身の学生たちの体験や経験に驚かされます。社会主義体制の中で生きた友人たちの実体験は、「体制の違い」という言葉で表現できる差異を遥かに超えたものでした。知らなければ想像すら困難な大きな隔たりを、すでに存在しない体制に対して感じたものです。
この時期、学生として旧東ドイツ、また旧ソ連のウクライナやアゼルバイジャンの友人たちとの出会いがあり、また後には仕事でポーランドやバルト三国へも出向く機会にも恵まれましたが、これらの国々のEU加盟なしに、数々の出会いも仕事上の取引もあり得なかったことです。

2020年代、冷戦を知らない世代

そして今、2020年代に入ってドイツに来ている東の若者は、冷戦を知らない世代です。2、30年前と比べると、服装やメイクも様変わりしました。2004年に加盟国となって、それ以後経済的にも大きく発展したポーランドやバルト三国は、ドイツ人にとってますます身近な存在となっています。

冷戦を知らない自由なヨーロッパで生まれた世代にとって、EUはもはや単なる経済共同体以上の意味を持つ、価値の共同体です。
まさにウクライナは、そんなEUへの加盟を段階的に開始していたところでした。

こうして見ると隔世の感を禁じ得ないのですが、これをまた一気に冷戦時代へと再び引き戻そうとするかのような今回のロシアの行動は、西ヨーロッパのここ30年の潮流への強い否定でした。

しかし再び冷戦時代に戻ることはできません。スマートフォンのない時代がもはや考えられないのと同じように、EUの拡大で人々が受けてきた恩恵もまた大きいからです。
EUには確かに、これまでにもギリシャ危機やイギリスのEU脱退などの困難がありました。
それでも経済活動を通じた人々の流動性と社会のダイナミズムとエネルギーは、1990年以降のEU拡大に付随した現象であっただろうと思います。それは私自身の過去20年と切り離しては考えられないものでした。

この足元を救われたような感覚は、かつて国を失ったソ連の人々、今ウクライナを追われた人々、またロシアを捨てて去る若者、大なり小なりそれぞれが時代も場所も体制も超えて感じた喪失感と繋がっている気がします。
そして、いつかプーチン大統領自身をも襲う感覚なのでしょうか。あるいはすでに彼は30年前からこの喪失の中にいたのでしょうか。

勝者も敗者もなくただ残る喪失の後に、自由なヨーロッパしか知らない若者たちは、今後どんな世界を再築していくのでしょうか。


最後にドイツ語単語を一つ。。

Entnazifizierung(非ナチ化)

プーチン大統領は、核兵器の使用までちらつかせながらウクライナを武装解除し、また非ナチ化するため、そしてロシア人に対するジェノサイドを止めるために平和維持軍を派遣、また特別演習を実施しているということでした。

この中にEntnazifizierung(非ナチ化)という言葉が出てきます。
ナチス党の排除という狭義の意味もあれば、広義にはナチ的な思想の排除までを意味する言葉であり、第二次世界大戦後に多くの国で行われました。

プーチン氏は、ゼレンスキー大統領率いるナチス政権の非ナチ化を行うと言っています。

ちなみにゼレンスキー大統領ってユダヤ人。。。

長くなりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。


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