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60年目の全国戦没者追悼式という日を迎えて思うこと

noteに登録したのは、どれくらい前になるだろうか?コロナ以前には登録していたという記憶はある。米大統領が、ドナルド・トランプで中間選挙あたりだったと思うから5年前になるのかな?

まあ、生業が生業なもので、ここでエロネタを書いてもいいのか躊躇している間にどんどん時は経ってしまいました。

最近は、LGBT法やらトランス女性の犯罪行為やらが世間を騒がせているので、立場的にはその辺についての見解を書いてもいいのかなと思っております。

ですが、私はトランスである前に日本人なのですよね。LGBT法なんてものよりも今日という日の方が圧倒的に気がかりであり大切なことなのです。

ということで、ここからが本題です。

今日8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」そして昭和38年(1963年)から毎年この日に「全国戦没者追悼式」が政府主催で行われている。

私の人生と同じ長さの歴史を持つ追悼式、私の生まれた年から始まったことなので不思議と覚えている。そう60年目という節目の年ということもあって少し思うことがあった。人として日本人として大切なこと必要なことであり、後世へ語り継がなければいけないことではあると思う。しかし、ふと感じたことがある。自然との回路をぷっつりと遮断?断絶してしまった現代人に伝わるのだろうか?理解できることなのだろうか?

人にとって本当に大切なことを取り戻さないことには、完全に形だけの偽善的なものになり、そこには愛のカケラも感じられないんじゃないかと思う。そんな軽薄なことで戦没者追悼になるのか?

違う。そうじゃない。先の戦争では、負けはしたものの当時の日本人のがんばりで欧米列強からの侵略を阻止してくれたと私は思っている。それを今の日本人は米中の好きなようにされても平気でいる。そんなことでいいの?ってことなのである。何のために命をかけて戦ってくれたのか?もちろん平和がいい。だからこそ先の戦争を嘘偽りのない事実を基にトコトン考察して反省して今に未来に活かすことが大切ではないの?これまでのように不都合なことはなかったことにしていたら、これからもずっと前進できないと思う。それでは、やがてまた大きな過ちを繰り返すことになる。

それでは、戦没者への冒涜である。私達は彼らから命がけの愛を受け取ったのだから、愛のお返しをしないといけないのではないのだろうか?もう一度言う。だからこそ先の戦争を嘘偽りのない事実を基にトコトン考察して反省して今に未来に活かすことが大切ではないの?

それが、真の戦没者追悼なのではないだろうか?

今日というこの日に必ず有識者たちが「同じ過ちを繰り返してはならない」と口にする。まったく以って口ばかりとはこのことである。なんのことはない戦後私達はずっと同じ過ちを繰り返し続けている。確かに終戦からここまで戦争はしてこなかったが・・・戦争に突入するきっかけとなった思考回路・言動は当時の人たちと何も変わっていない。同じ過ちを繰り返す土台、基盤に揺るぎがないのだ。武器を放棄したところで、精神思考が変わってないのだから、やがてまた同じ過ちを繰り返す。

それが、本質だと思う。その本質をしっかりと見つめて、再構築していくこと、それが戦没者への真の供養になるのではないだろうか?


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