[和訳] 白鯨 -第1章- 

今年の春にみた「The Whale」という映画がいまだに脳裏を掠める。
あの巨大で心優しくこの世で最も醜い男の物語の解像度を上げるため、英語が苦手な私が辞書を引きながらゆっくりと原作の翻訳を試みるプロジェクトである。なお本作は著作権が切れているため翻訳を載せても大丈夫なのである。なお原作未読。飽きたら終了。

◎引用元 (gutenberg)

第1章 迫り来るもの
僕のことはイシュマエルと呼んでくれ。
数年前…正確な数字は気にしないで。財布にちっともお金がなくて、また海岸に私を惹きつけるものがちっともなかった頃の話だ。ちょっとばかり海へ出て世界の水域を見て回ろうと思った。これは不機嫌を追っ払い調子を元に戻す僕なりの方法だ。たとえば自分の顔が険しくなっていることに気づいた時や、11月の湿っぽい小雨が私の心に降ったとき、棺桶倉庫の前で不意に立ち止まってしまったとき、立ち会う葬儀の裏側についてあれこれ考えてしまうとき、そしてとりわけ虚言癖で大げさなことを言ったとき…そういう時は強い道徳的観念が自分の中になかったら意図的に路地に踏み込んで、計画的に人々の被り物を落として回らなきゃいけなくなる…ま、そうなったら一刻も早く海へ出るべきだと考えた。言ってしまえばピストルと弾丸の代わりだ。哲学的な気分の高まりが英雄カトーに剣を持たせ…私には静かに出航させた。なんてことはない。ほとんどの男は僕くらいの年齢になると海に対して私と非常に似たような感傷を持つはずだ。

さあ、ここはマンハットーの島嶼都市だ。東インド諸島のような珊瑚礁の波止場が大いなる波から商業を守っている。右も左も、道は全て水辺へと繋がっている。 ダウンタウンの中心には砲台があり、数時間前には陸地に確認できなかったその "高貴なモグラ" は波に洗われ微風に涼んでいる。見てごらん、海を眺めるあの人々の群れを。

安息日の夢見がちな午後の街を散策しよう。コリアーズ・フックからコーンティーズ・スリップへ抜けて白の会館のそばから北進。さあ、何が見える?まるで口を閉ざした番兵のように、街の至る所で何千もの死を待つ者たちが海の幻想に囚われてつっ立っている。ある者は杭にもたれかかり、ある者は桟橋に座し、ある者は防波堤の向こうに浮かぶ中国の船を眺めている。もう少し海がよく見えるようにと帆に張り付いた人間もいる。しかし、あれらの人々は陸に生きているのだ。週の何日かをおがくずと石膏に塗れたり、カウンターに立ちっぱなしだったり、ベンチに座りっぱなしだったり、机に向きあったりしている。では一体、これはどういうことだろう。大地から緑は消え去ってしまったとでも言うのか。彼らは一体何をしているのだろうか…。

見てくれ。よりたくさんの群衆がやって来て、迷いなく海に向かっていき、今まさに飛び込もうとしている。なんと奇妙なことか。向こうにある倉庫の、陽の当たらない風下で時間を潰すだけでは満足できないようだ。"やがて行き着くところ"の他に彼らを満足させるものは無い。いや…違うな。よくよく見れば彼らは落ちるすんで・・・のところで支え合って立っている。その距離はおおよそ数マイル。団結と呼ばれるものだ。陸の人々は北から南、東から西、小道から路地、馬車道から目抜通りまであらゆる所から集まってくるが、ここでは全員が団結する。教えてくれないか、船の羅針盤が節操を働かせて彼らをここへ引き寄せたとでもいうのかい?

あるいは君が田舎にいるとする。高原の湖のほとりにあり、君は心のままにあらゆる道を駆けてゆく。そして10人と 1人 で谷を引きずるように下ってゆき、君だけ小川の溜まりのそばに置き去りにされる。そこには魔法がかかっている。最も惚けた人々を最も深い夢想に浸らせる魔法…男の足を立たせて、とにかく動かす。その一帯が水で満たされているならば、彼は間違いなくあなたを水辺に連れて行ってくれる。もし君がアメリカの大砂漠で喉が渇いたときは、この実験を試してみてくれ。キャラバンに形而上学の教授が乗っていれば尚更だ。そう、皆が知っていることだが、瞑想と水は永遠に結びついている。

一方で、ここに夢想的な芸術家がいる。彼はサコ渓谷に引きこもり、この世で最も幻想的で、最も陰気で、最も静かで、最も魅惑的で、最も官能的な風景を描きたいと試行錯誤している。彼はどんな絵を描くだろうか?彼の棲家である巨木はまるで隠修士と十字架が中にあるかのように、それぞれの幹が空洞になっている。牧草地には牛が横たわり、向こうの小屋からは眠そうな煙が立ち昇る。閉ざされた森林地帯の奥深くの曲がりくねった先には丘の中腹、青に染まった山々が重なり合う支脈に到達する。ただしどれだけ絵がトランス的であっても、松の木が羊飼いの頭の上でため息のように木の葉を振り下ろしても、それでも羊飼いの目が魔法の流れに釘付けになっていない限り全ては無駄だった。六月の大草原を訪れるといい。そこで何マイルもの間、咲き誇るオニユリの中を膝まで浸かって歩いたとき、君が呟くであろうただ一つの呪文は何だ。それは「水」。そこには一滴の水もないからな!もしもだ、ナイアガラの滝が単なる砂の瀑布だったとしたら、それを見るために千マイルも人は旅をするだろうか?テネシー州の貧しい詩人が二杯の銀貨を突然受け取ったとき、コートを買おうか、それともロッカウェイ・ビーチへの歩きでの旅にお金を投資すべきかをなぜ大いに悩んだ?健康な魂を内に秘めた、ほとんどすべての丈夫で健康な少年達はなぜ時折、気が狂って海に出てしまうのか。乗客として最初の航海で乗った船が陸地から見えなくなったことを告げられたとき、なぜ神秘的な身震いがあなたの身体を駆け抜けたのか。なぜ、大昔のペルシア人は海を神聖視したのか。なぜ、ギリシャ人は海に個別の神を見出し、最高神ヨヴェの弟としたのか。 当然これらすべてに意味がないはずもない。溺死したナルキッソスの物語はどうか。彼は泉で見た穏やかな幻影を前にして直面した苦しみの正体を理解できぬまま泉に飛び込み溺死した。しかし、本当は同じイメージを私たち自身がすべての川や海で見ている。それはつかみどころのない人生の幻影だ。そしてこれがすべての鍵となる。

さて、僕が目が霞んだり肺が軋みだしたりすると海に行くのが習慣だと言ったね。でも乗客としてじゃない。乗客として乗り込むには財布が必要になるわけだが、僕の財布は何も入ってない単なるボロ雑巾だったから。それに船の乗客ってのは船酔いはするし、口論はするし、夜も眠れない。一般的にはあまり楽しいものではない。かといって提督とか、船長とか、コックとか、そういうメインじゃなく僕は料理に振りかけられた塩みたいな存在だった。栄光や栄誉のある職業はそれを好む人種に明け渡すよ。「努力」「試練」「苦悩」とか、そういうしょっぱい・・・・・のは好きじゃない。バーグ船やブリッグ船、スクーナー船の世話をする前に自分自身のことでいっぱいいっぱいだ。そしてコックに関しては、コックというものはまるで "船上" の将軍のようなもので、実に名誉な職業だ。だが、僕が鳥を焼く仕事に就こうなんて夢にも思わなかった。実を言うと一度だけ焼いたことがある。実に慎重にバターを塗り、実に厳正に塩コショウを振ったよ。僕ほど焼き鳥にリスペクトを持って話す人間もいないだろうね。ピラミッド内部に存在する巨大な焼き場にカバの燻しやトキの塩焼きのミイラがあるのは、古代エジプト人が偶像崇拝的に愛を捧げていたことを示していると思っている。

そうさ、僕が海へ行くときはシンプルに乗組員として乗船する。帆の手前から垂直に降りてゆき、そのまま "王サマ" のいる檣頭へ急ぐんだ。そうさ、あいつらは僕にあれこれ命令して、5月の牧草地にいるバッタみたいに円材から円材へとぴょんぴょん飛び移らせる。まず、そういうことが不快になる。特にこの土地の古い名門、ヴァン・レンセラー家、ランドルフ家、ハーディヌーツ家出身の場合、それはもう尊厳に関わるくらいにね。何よりもタールポットに手を入れる直前まで、あなたが田舎の学校の威張った教師で背の高い男子たちに畏敬の念を抱かせてきたならば。それならば校長から船員への移行は激しい苦痛だと断言できる。笑ってそれに耐えられるようにするには、セネカとストア派の強力な煎じ薬が必要だ。しかし、いずれは時間の経過とともに消えてしまうものではある。

船長のような年老いた男が僕に箒を持ってきて甲板を掃除するように命じたからって、何だってんだ?その屈辱は新約聖書の秤で量ると、どれくらいになる?あのとき私がそのジジイに即座に敬意を持って従ったからといって、大天使ガブリエル様は私めのことなんざ考えてくれちゃいないよな?一体、奴隷でない人なんているのか?それが聞きたいんだ。ま、そうだな、例え老船長たちが僕にどんな命令をしようと、どんなに私を殴ったり、蹴ったりしても、僕はそれが以下の理由で大丈夫だと知っているから満足だ。他のすべての人は、物理的または形而上学の観点から、何らかの形でほぼ同じように奉仕されている。コイツが殴った衝撃は全宇宙に轟き、そしてコイツの肩甲骨に帰ってくる。それで満足だ。

繰り返すけど、僕が海に行くときは乗組員として乗り込むことにしている。
なぜかって船の上で感じた苦しみに対して対価が支払われるからね。聞くところによれば乗客連中は1ペニーたりとも貰えないらしいじゃないか。あまつさえ乗客の側が払うという。お金を払う方と払われる方。その二者は全く違う世界に住んでいる。おそらく「支払い」という行為は二人の "果樹園泥棒" がもたらした最悪の代償だと言える。だが「支払われる」という行為はそんなものの比じゃない。僕たちがこの世のすべての諸悪の根源が金でありお金をもらった人はいかなる理由があろうとも天国に入ることができないと真剣に信じていることを考えると、人間がお金を受け取る都会的な活動は実に驚異的だ。ああ、僕たちは何と溌剌と滅びに身を委ねていることだろう!

これが最後になるが、僕はいつも船乗りとして海に出る。それは前甲板の健全な運動と清らかな空気のためだ。前甲板で受ける風はこの世界と同じで、追い風よりも向かい風の方がはるかに多いんだ(ピタゴラスの格言に従うならばね)。従ってほとんどの場合、後甲板の提督はいつも船首の船員たちが吸って吐いた2番手の空気を吸っているんだ。彼はいつも最初に吸うのは自分だと勘違いしているようだけど、それは違う。同様に多くのことでリーダーってものは自分が導いてると思いがちだが、そのことに関して全く疑ったりはしない。しかしどういうわけか、そのように海の匂いを繰り返し嗅いだ後、今度は捕鯨公開に行かなければならなくなる。これは目に見えない運命の警察官で、僕を常に監視している。そして密かに僕を追い回し、説明のつかない形で影響を与えてくる。彼は他の何者よりも確実に僕の行為に応えるのだ。そして間違いない。僕がこの捕鯨航海に参加することは、はるか昔に策定された摂理の壮大な計画の一部なのである。それはおそらく大長編の演目の間の、ある種の短い間奏やソロみたいなものだ。お題目の内容は以下のようなものだと思っている。

アメリカ合衆国大統領選挙の大争奪戦
イシュマエルによる捕鯨航海
アフガニスタンの血みどろの戦い

他の舞台監督が高尚な悲劇の壮大な役や、上品な喜劇の短くて簡単な役を任されたのに、なぜあの舞台監督である運命さんとやらが僕を捕鯨航海にみすぼらしい役に降格させた上で、茶番劇の中の陽気な部分になぜ登場させたのか…正確には分からない。しかし、今、すべての状況を思い出してみると、その萌芽がうすぼんやりと見えてくる。狡猾に覆われつつ提示された萌芽は僕自身の公平な自由意志と差別的な判断から生じた選択だった。

選択する上での動機の中で最も重要なのは、偉大なクジラへの圧倒的な思索だった。不吉で神秘的な怪物は私の好奇心をすべて呼び起こした。それから、彼が転げ回るせいで荒々しく近づけない海。名前もない不可侵の領域。これらはパタゴニアの幾千もの光景や音、あらゆる驚異とともに私を駆り立てた。おそらく他の男だったら、そんなことに心を惑わされたりしない。だが僕はそれら手の届かない場所の永遠の痒みに悩まされるのだ。僕は禁断の海を航海したり、野蛮な海岸に上陸したりするのを好む。僕は良いことを見逃すたちでも無いけど、恐怖を察知するのが早いんだ。そして仲良くしておいた方がいい囚人たちとも良好な関係を築くことが…彼らが許してくれる場合のみに限るが…可能だった。

こうした理由から捕鯨航海は歓迎だった。いま不思議な世界の大いなる水門が開き、野生に自惚れた僕は大いなる目標へと揺り動かされる。僕の魂魄にぽつぽつと浮かんだクジラはやがて果てない大行列を成し、その中心に一匹の鯨が現れた。天空に揺蕩う雪の丘陵のような、ベールを被った雄大な幻影だ。

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第1章を読んでくれてありがとう。
読みやすいように第2章はまた別の記事として出します。いつか絶対に。


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