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消えてしまった文字が教えてくれたこと

テレビの生中継にハプニングはつきものだ。
笑ってすまされることもある。
だが私の場合、職場を離れるきっかけとなった。

モニターの文字が消えた

その日、私は政治部の記者として生中継に臨んでいた。与野党攻防の局面を伝えるためだ。

国会記者会館の簡易なスタジオにはプロンプターというモニター画面がある。記者は、目の前の画面に映った原稿を読み上げていけばいい。便利な道具だ。

2分程度の短い原稿。政治部に配属されて丸9年。すでに中堅記者になっていた私にとっては、難なくこなせる仕事のはずだった。ところが本番中、予想もしないことが起きた。画面にあった文字が突然視界から消えたのだ。

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機器の不具合ではない。一瞬目の前が白く飛んだかのように、モニター画面の文字を捉えられなくなったのだ。あわてて手元に置いた原稿に目を落とし、なんとかその場をしのいだ。

ちょっとつっかえた。テレビを見ている人にはその程度の印象だったかもしれない。大きな騒ぎになるようなことはなかった。

でも、私にはとてもショックだった。それは体に起きていた変調がはっきりと表に出た瞬間だったからだ。

以前から緑内障という目の病気を患っていた。視神経の異常によって視野が欠けていく病気で、進行すれば最終的には失明の恐れもある。今の医学では一度失われた視野を取り戻すことはできない。治療によって進行が止まる人もいるが、私は食い止めることができないでいた。

文字が消えた原因がこの病気にあったことは、間違いなかった。

政治部を離れる決意

それ以降、生中継の事前準備には念を入れた。プロンプターはぎりぎりまで体に近づけ、万一、視界から文字が消えてしまっても対処できるよう、原稿の丸暗記に努めた。

とはいえ、生中継は記者の仕事のほんの一部だ。様々な場面で次々と異変が起きた。
細かい文字の資料が読めない。
人の顔を見間違えた。
原稿で「。」を打つところが「、」になっていた。
変化に気づき始めた周囲に「大丈夫か?」と聞かれるのが辛かった。

大丈夫ではなくなっていた。

適性があったかどうかは自信がないが、政治部の仕事は楽しかった。中に入ってみると、永田町はとても狭い世界だ。仕事に慣れてくれば、あちこちで見知った顔を見かけるようになる。毎日、細かな情報を集めながら、国家という巨大な歯車が回る音に耳を澄ました。

20080528四川大地震 被災地への救援物資 自衛隊機で輸送の方針 政府

「蟻の目と鳥の目を持ち合わせた記者になれ」と鍛えられた。十年にわたって官邸、与野党、省庁とひと通りの持ち場を担当した。この先も充実した日々が続くことを願っていた。

それを阻んだのは、目の奥深くに根を下ろした招かれざる客だった。

目の病気とは残酷なものだと思う。目を開いて起きている間、常に健康ではないことを自覚させられる。医者は「ストレスが一番悪い。あまりくよくよと考えないように」とアドバイスをくれた。どうしたらいいのか、さっぱりわからなかった。

政治部を離れることを、上司に申し出た。

38歳。培った経験と人脈を存分に生かしていく、まさにそんなタイミングだった。

新しい職場は「専門家集団」

表現の仕方は難しいが、連日トップニュースとなるようなテーマを追いかける政治部は花形職場のひとつと言っていいだろう。もちろん多くの人は定期的な異動によって、出たり入ったりを繰り返す。それでも将来の展望はそれなりに見えているのが常だ。

だが、私には全く将来が見えなかった。マラソンランナーがレースを途中棄権した時のような挫折感に打ちのめされた。  

新しい職場は、報道局選挙プロジェクトという異色の部署だった。

国政選挙や地方の選挙を扱うNHKの選挙報道には専門的な作業が数多くある。例えば出口調査。調査員を確保し、統計的な手法で調査地点を決め、集まった結果を処理する。開票所でまだ発表されていない票の情報まで事前に集め、最終結果を見通すことができれば直ちに当選確実を打ち出せる。これだけではないが、長年NHKが培ってきた選挙報道のノウハウを磨き、全国の記者に伝えていくのが選挙プロジェクトの仕事だった。記者だけでなく、システム開発を担う技術職もいた。

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専門家集団といった趣の同僚たちは皆親切だった。

「無理しないでくださいね」と声をかけられた。締め切りに追われることなく、自分のペースで仕事ができるようにと配慮してくれたのだと思う。

だが、温かい環境に感謝しつつ、「もう二度と取材現場には戻れない」という喪失感に悶々としていた。

目の前に大きな文字が

部署が変わっても、目を使うことに変わりはない。病気の症状はなおもなだらかな下り坂を進んでいった。新聞の活字は見出し以外まともに拾えなくなっていた。PCの画面に顔がくっつくほど近づけても画面の文字が読めないこともあった。

この先、どうして過ごしていくか。そればかりを考えていたある日、思いがけない光景が目に飛び込んだ。デスクのPCの画面に見たこともないほど大きな文字が映っていたのだ。

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驚く私に、同僚の記者が声をかけた。
「これ使ってみてもらえる?調べたら便利そうだったので」

それは拡大鏡というPCのアプリケーションだった。マウスを使ってカーソルを合わせた部分が虫眼鏡をあてたように大きく見える。拡大の倍率は自由自在に設定できた。

「助かった」
心底そう思った。

普段とても物静かなこの同僚は私の詳しい病状など一度も尋ねてきたことはなかった。だが、沈黙が無関心とは限らない。そばで私の様子を眺め、対応策を案じてくれた彼の姿にそのことを教えられた。今になって振り返れば、自分で調べることもできたのだと思う。その心の余裕さえなかった。

「何もかもできなくなったわけじゃない。くよくよ嘆いてばかりいないで、どうやったらできるようになるか考えろ」
画面に映る大きな文字が語りかけていた。

拡大鏡が広げてくれたチャンス

国政選挙は政治部、地方選挙は現地の地方局の記者が原稿を書く。それが不文律のようになり、選挙プロジェクトはひたすら縁の下の力持ちに徹していた。名刺に「記者」がついていても、記事を書く出番はない。

ならば、記事を書ける場を開拓しよう。政治部と地方局の記者が追えていないネタを探そう。

拡大鏡があれば、企画書を打てる。

若者の投票率低下を受けて、生の声を聞いてみようと思い、政治学を教えている大学教授たちと勉強会を重ねた。そのネットワークを活用し、大学生10,000人に政治意識についてのアンケートを行った。「生活には満足。政治には無関心」という傾向が浮かび上がり、ニュース番組で特集された。

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18歳選挙権の導入が決まると、ディレクターと協力して特設サイトを立ち上げた(現在は閉鎖し、記事の一部は「選挙WEB」に。文末にリンク)。
「ポップに学ぼう」を合い言葉に選挙の豆知識や世界の選挙事情などのコンテンツを発信した。久しぶりに署名記事も書いた。

時代の波も後押ししてくれた。IT機器はその頃バリアフリーの機能を急速に拡充していた。

「自分はまだツキがある」

風向きはアゲインストばかりではなかった。放っておけば止まっていたかもしれない時計の針が再び動き始めた。

3年前にネットで連載が始まった「NHK政治マガジン」も、記事に関わるチャンスを広げてくれた。実際の選挙での虚虚実実の駆け引きや、候補者の揺れ動く心情を映像で表現するのは、なかなかハードルが高い。その意味で選挙報道とネットは相性が良かった。

選挙プロジェクトには、取材メモや膨大なデータが日の目を見ることなく眠っていた。それらを掘り起こし、記事にして表に出す動きを先導した。拡大鏡が広げてくれたのは文字の大きさだけではなかった。

32,000人アンケートの責任者に

2019年の統一地方選挙にあわせて、NHKは全国1788の地方議会に所属する32,000人の地方議員全員を対象としたアンケートを行った。「地方議会なんていらない」そんな声すら上がる地方議会が本当に役割を果たしているのか、問題点を探るためだった。

私はアンケートの責任者を務めることになった。部署の垣根を超えて「選挙に絡めて何かやろう」と始まった作戦会議から生まれたアイデアだったからだ。

予想を上回り、20,000人近い議員から回答があった。

NHKの強みは全国を網羅したネットワークにある。各地の記者に取材ルポを募り、アンケートの回答を掘り下げていった。20,000人分のデータ処理は、数字の扱いにかけてはNHK随一と言っていい職場の後輩が全面的に支えてくれた。

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地方議会の取材を通じて痛感したのは、政治の現場は国会だけではないということだ。当たり前のことなのだが、国政を担当していた頃は中央ばかりに目が向いていた。かつて現場で教えられた「蟻の目と鳥の目」を図らずも体得したように感じた。

曇りガラスの向こうに

「もはや地方議会は崖っぷち」
アンケートに寄せられた当事者からの赤裸々な声はニュースやNHKスペシャルで数多く取り上げられ、反響を呼んだ。

番組を見た出版社から「本にまとめませんか」と声をかけてもらい、原稿を書くことになった。

視覚を補ってくれる利器は今や拡大鏡だけではない。思いついた文章をスマホに声で吹き込むと文字に書き起こしてくれる。PCの読み上げソフトは、打ち込んだ文字をその場で読み上げてくれる。漢字の字解きもしてくれるので「感傷」「干渉」「鑑賞」といった同音異義語の書き分けもできる。

6月、『地方議員は必要か 3万2千人の大アンケート』が書店に並んだ。

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プロンプターのモニター画面の文字が消え、記者生命の終わりさえ予感したあの日、記者として本を書く未来など予想できなかった。大勢の人の理解と励ましと助言のおかげで、記者を続けられている。

私は現在NHKで唯一の視覚障害者の記者だ。等級は最も重い1級。曇りガラスを透かして見るような、おぼろげな視界を頼りに日常を生きている。

障害を背負うことは何かを失うことだ。そんなことばかり考えていた時期があった。しかし失うばかりではなかった。

「迷惑をかけるから、会社をやめよう」
何度も頭に浮かんだ考えは封印した。

私の歩いている道が、今後同じような境遇になった人にとって働きやすい環境を切り拓いていく。そんな仕事を続けていけることを、今は願っている。


杉田 淳 報道局 選挙プロジェクト 
1993年入局。最も心に焼き付いている取材経験は、2003年のイラク戦争終結直後、与党幹事長らによるイラク訪問団に同行した時のこと。失脚したばかりのフセイン元大統領の肖像画が印刷された紙幣を手にした子どもたちに囲まれ、「ワンダラー」「ワンダラー」(米1ドル紙幣と交換してくれ)とせがまれた。政治は子どもたちの未来を左右し、翻弄するものだと実感した。

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【杉田記者はどんな仕事を? 過去の記事はこちら】

【杉田記者はデスクとしてこんな記事を監修】

※他にも「政治マガジン」に掲載された選挙や地方議会の記事を多数手がけています。

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