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何も考えていなかった「僕」が当事者だった「彼女」と出会って3月11日が自分ごとになるまで、それぞれの10年

あの日の僕は、神奈川で暮らす高校1年生だった。特に被災地に深く思いをよせることもなく。

あれから10年。26歳の僕は岩手に住むNHKのディレクターで、東日本大震災の番組を作っている。


のん気そのものだった学生時代

高校時代の僕はラグビーの練習に明け暮れる毎日で、あの日、3月11日は練習で足を捻挫して整形外科で順番を待っていた。「試合に出られなくなったら嫌だなぁ」とか「当分は練習休めるな」などと思っていた午後、突然あの揺れがきた。

雑居ビル4階のクリニックはかなり揺れて停電もしたけど、なぜかその場の誰も大事とは思わず、世間話をしたりしていた。

診察を受けた帰り道に信号が消えていたけど、一時的なものだろうと気に留めず、家に帰っても停電していてそのとき親が聞いていたラジオで、ようやく自分の想像もつかないことが起きていることが分かった。

でも電気が戻ってテレビで津波の映像を目にしても、僕は東北には一度も行ったことがなく、縁もなく、どうしてもつながっている世界と思えなかったことを覚えている。

ほかに覚えているのは地震の翌日もその次の日も普通に部活があり、見学には来るように言われて「休みにならないのかよ」と思いながら、部活に行き続けていたこと。

のん気なものだ。

同じ高校生でも東北のために募金やボランティア活動をしていた人もいたのだから、やろうと思えばやれたことはあった。でもそのとき僕の頭の中にあったのは「明日からの部活がどうなるか」だけ。大学生になっても本質は大して変わらず、被災地に思いをよせたことはほとんどなかったという自分がいた。

被災した人の思いが想像できない

大学では文学部で開高健さんや辺見庸さんなどのジャーナリストの著作に触れて、マスコミの仕事に憧れを抱いた。新聞社はことごとく落ちたけどNHKにはなんとかディレクターとして採用され、2017年の4月に赴任したのが仙台だった。

「東日本大震災の番組は、仙台局の”一丁目一番地”だ」

震災から7年にしてようやく、「東日本大震災」に向き合うことになった。

石巻、気仙沼、南三陸。いろいろなところに足を運ぶと、「空き地ばかりだな」、「まだこんなに工事をしているのか」と驚かされる。そして多くの地元の方々にお話を聞かせていただいた。

何もわかりません、教えてくださいと、のこのこやってきた23歳の僕に、宮城のみなさんはとても優しくしてくださった。

取材ではその人がどのような被災をされたかを必ず確認する。
家族や親戚で亡くなった方はいますか。
自宅は津波で流されたのか大丈夫でしたか。
あの日はどこで何をしていましたか。

そんなことを思い出したい人がいるわけがない。それでも話してくださる方々がいて、そうした方々の優しさに甘えていたのかもしれない。ある「事件」がおきた。

震災経験を語り継ぐ「語り部」を始めようと考えている高校生に出会い、取材したときのこと。僕としては年齢が近いこともあり、ご家族にもご挨拶させていただいたり、親しくしていたつもりだった。

しかしロケの前日に突然「撮影に来ないでください」というメールが来た。慌てて電話したが、つながらない。

共通の知人に電話して、なんとか説得してくれと頼んだものの、
「もう勘弁してやってくれ。あの子も迷惑してるんだ」と怒られる始末。
結局、ロケは中止になった。

なぜ突然、撮影に応じてくれなくなったのか。
今もその理由はわからない。

被災した人の気持ちは被災した人にしかわからない。ましてや6年間東北のために何もせず、7年たって初めてきたばかりの自分になんてわかるはずがない。いや考える資格すらないんじゃないか。

彼女は当事者だった

仙台での楽しみといえば、東北一の歓楽街といわれる「国分町」の界隈で酒を飲むこと。日本酒も仙台に来て初めて美味いと思うようになった。同期や先輩も関東出身の人が多く、よくつるんで夜の街に繰り出していた。

ある日、友人の紹介で同い年の女性と飲みにいく機会があった。23歳だった僕は彼女どころか友達もいなかったので、張り切って良いバーに行ったりして、映画の話や趣味の登山の話などで盛り上がった、と思う。

何の気なしに出身地を聞くと彼女は「石巻市」と答えた。

「いつまで石巻にいたの」
「高校卒業まで」
「じゃあ、大変だったね」

彼女は津波で祖母が亡くなり、家も流されたと話した。それ以上は何も聞けなかった。これ以上聞いてこないでほしいという雰囲気があった。

話題を変えて楽しく酒を飲むことに気持ちを向けた。もしあのとき僕の中の取材スイッチが入って、その日どこで何をしていたのなどと根掘り葉掘り聞いていたら、もう彼女は会ってくれなかっただろうと思う。

故郷を背負う気持ちと、背負わされる重み

その後も一緒に遊びに行ったりご飯を食べに行くようになったりしたけど、僕の中にはある種の緊張感がずっとあった。

「震災のことをうかつに聞いてはいけない」ということだ。

実際、彼女は「マスコミが好きじゃない」とはっきり僕に言ったし、僕はそれをけん制と受け取った。震災について過度に尋ねないことで保たれている関係だったと思う。

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ときどき彼女から話を振ってくることはあった。仙台に住んでいる彼女は「いつか石巻に帰ってくる」という周囲の期待にさらされていた。

石巻のために、被災した自分に何ができるのか。

突き詰めて考えると「自分が被災したことに何か意味はあるのか」
さらに「自分は被災しているから周りの人が構ってくれるだけであって、本来自分には何の存在価値もないんじゃないかと感じている」ということも彼女は話した。

僕は彼女のような同世代で被災した人たちが抱えているもの、担わされているものの大きさに、大げさじゃなく愕然とした。

こんなことがあった。彼女が知人から頼まれてあるトークイベントにパネリストとして呼ばれたというので、僕は観客として見に行った。
そのイベントは震災からの東北の復興を考えるという趣旨で、10人ほどのゲストの中に彼女はいた。

ある人からこんな質問が出た。

「あなたは石巻出身者として、これから何をするの?どう復興に貢献していくの?」

その質問からは、石巻から離れる、もう関わらないという選択肢は予め排除されているようだった。

もちろん、悪意のある質問ではなかったと思う。でも彼女が言葉に詰まるのを見て、僕はたまらなかった。なぜ彼女に必要以上に重荷を背負わせるのだろう。

同時に気づいた。「被災している若者」だから取材するということを、それまで僕もやってきた。そうしたバイアスが彼ら彼女ら、そしてあの高校生にも見抜かれ、「料理される」ことを避けて、本音を語ってくれなかったのではないか。

「被災者であることをやめよう」という若者

2年後、僕は仙台から岩手に異動し、震災の伝承に関する番組や、ラグビーワールドカップの番組の制作に携わった。

震災についての若者たちの集いに何はなくとも顔を出すようになり、酒を飲み交わしたり、一緒に海に行ったり。多くの若者がそれぞれ、いろんな思いを抱えていることをなんとなく知るようになってきた。

でもそれを番組にすることはできなかった。それは常に番組という形にしたときにこぼれ落ちてしまう何かのようで、すっきり説明することができないため、結局「若い世代ががんばっています」という番組しか作ることができなかったのだ。

若い世代の本当の本音に寄り添う番組って作れないものかな。

取材先のつてをたどるうちに、ひとりの若者に出会った。岩手沿岸で中学生のときに被災したAさんは、母と兄と妹を津波で亡くし、身寄りは姉しかいない。親戚に頼るのをためらい、ひとりで仮設住宅に暮らしたという。

そんな彼は高校生のときにメディアの取材をたくさん受けて、自らの経験を話す機会も多かった。 「何かしていたい」という気持ちだったというけれど、防災やまちづくりを志して大学に進学したものの、いざ地元を離れると「自分は何者なのか」ということに思い悩むようになった。震災に関わらないなら、自分のやりたいことは何なのかと。

長く悩んだ時期を経て彼は今、
「被災者であることはもうやめようと思う」と話した。
生まれ育った地元に帰ることはもうないだろうとも。

彼の話を聴いて確信した。

「悲しみは一生背負わなければいけない」
「故郷は常にあなたについてまわる」
「震災を経験したことには何か意味がある」

そうした眼差しにさらされてきた若者達は、いつしかテレビの前で
「これからも頑張ります」
としか言えないようになってしまったのではないか。

「仮にあなたが被災者でなくても、あなたは大切なひとりの人間だ」
というメッセージを、もっと発信していくべきなんじゃないか。

それはあまりに当然のことかもしれないけど、メディア含め、この10年間、多くの人が、「被災した子ども」という色眼鏡でしか彼らと接することができなかったのではないか。

その色眼鏡のレンズを外すのはとても難しいことだと思うし、僕も今できているかといえば、できていないかもしれない。

「メディアの人に話をしたのは高校以来だ」とAさんが話してくれて、そうしたことをとても嬉しいと思ってしまった。僕の自己満足かもしれないけど。

同世代の思いを

もうすぐ10年。
この3月に20代~30代の世代だけを集めて、本音を語り尽くすトーク番組を制作することになった。

震災を経験した若い世代が、被災の程度の違いやさまざまな遠慮を乗り越えて話すことで、番組を見ている人にも「震災は一部の当事者だけで背負うものじゃない」「どんな思いも話せば誰かがわかってくれる」ということを伝えたいと思っている。

そして3月11日が過ぎたら、仙台で出会った彼女と結婚する予定だ。

10年を経て僕の中でもようやく少し、3月11日を自分事にできるようになった、と思う。

(河村直宏 NHK盛岡放送局ディレクター)

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<<編集部より>>
NHK取材ノートでは、#それぞれの10年 というテーマで今後記事を掲載していきます。あのとき何をして、何ができなかったのか。この10年、何に取り組んできたのか。それぞれの現場の「取材ノート」からお伝えしたいと思います。

そして河村ディレクターが手がけた震災を巡るトーク番組「トークルーム311@いわて」が、3/5(金)19:30〜岩手県域で放送されます。ぜひ御覧ください。


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