ペンとノートを持たない記者に渡された「ありがとう」の手紙と日記
震災の発生から数か月、各地で復旧の動きが始まるなかで、私(後藤デスク)の遠藤さんご夫婦への取材は続きました。2011年の末には美恵子さんが「ストレスケア」という資格を取得するため、仮設住宅で被災した人たちを訪ねる様子を取材しました。
(前編の記事はこちらです)
手紙には、にじんだ文字で「ありがとう」
資格の取得という目標を見つけた美恵子さんは、「娘が頑張った分、その思いに背かないよう生きていきたい」と話して、笑顔も見られるようになっていました。
でも年が変わってしばらくすると口数が少なくなり、家に閉じこもることが多くなりました。
どうしたのですか?と美恵子さんに尋ねると、ぽつりぽつりと、3月11日が近づいてくるにつれて娘を失った悲しみや、役場への就職を勧めたことへの自責の念がこみ上げてくること、眠れない日が増えてきたことを話してくれました。
私は週に数回ご自宅を訪ねては、清喜さんと美恵子さんと、町の復興や防災対策庁舎がこれからどうなるかなどについて話す日々を続けていました。
その年も終わりに近づいた2012年の11月のこと。
美恵子さんが、遺品の中から見つかったという手紙を見せてくれました。
それは未希さんが20歳の誕生日に自分自身にあてて書いたもので、津波に浸かった文字はにじんでいました。
美恵子さんは「自分を責めていたのが手紙を読んで本当に少し、少しだけど気持ちが軽くなった」と話し、そのあと決めたのはなんと、民宿を作ることでした。そこで命や防災の大切さを伝えていこう、というのです。
「地震や津波が来たら率先して避難する“高い防災意識”と“命の大切さ”を考えてほしい。未希が伝えたかったことは『高台に逃げて、そして生きてほしい』ということ。私たちも未希の声で助けられた。生きたかった未希の思いを背負い、自分たちができることをしっかりやっていきたい」と美恵子さんは話していました。
転勤で離れても寄り添い続けて
記者の仕事に人事異動、つまり転勤はつきものです。私も2013年、仙台から東京に異動しました。距離は遠くなりましたが、折を見て遠藤さん夫婦の元に通い続けました。
当時、未希さんが防災無線で避難を呼びかけたことが知られるようになり、メディアだけでなく多くの人が遠藤さん夫婦を訪れるようになっていました。時には首相の所信表明演説で未希さんことが紹介されたり、高校の道徳の授業の教材に取り上げられたり。
家族の知らないところで未希さんが大きく伝えられることに、2人は戸惑いも感じているようでした。
私自身、未希さんのことを何度も伝えてきた当事者という責任感もあって、遠藤さん夫婦への取材は継続していこうと決めていました。
民宿がオープンした様子や、訪れた宿泊客や子どもたちに命の大切さを伝える清喜さんや美恵子さんの姿、そして防災対策庁舎を解体するか残すかをめぐって揺れ動く美恵子さんの思い。
そうしたことを取材してニュースサイトに記事を書いたり、遠藤未希さんの特集サイトを制作したりなど、定期的に情報を発信していきました。
ペンとノートは持たない私に渡されたもの
いま思うと遠藤さんの両親の前で、ペンやノートを持って取材をしたことはほとんどありません。大切な話を聞いたときは何度か念を押して確認して、遠藤さんの自宅を出たあと、かばんの中のノートに殴り書きのようにメモしていました。
その場でメモをとってしまうと、どうしても「取材だけ」になってしまうからです。
おいしいラーメン屋、とんかつ屋、運動不足解消の方法、最近はまっているテレビ番組、わかめやホタテなど海の状況など。雑談に始まり雑談で終わることもありました。
でも何気ない会話の時間が本当に大切だったと思います。私自身、つらい時にそうした会話で気が紛れたこともありました。カメラを持ち込んでの取材を申し込む日は少なかったと思います。
美恵子さんにあとから聞いたのですが、私がそうした「仕事」の話題に入るときはあごを触る癖があるそうで、美恵子さんは私が取材について具体的な話をする時はわかっていたそうです。
それでもやはりノートを持って取材しないといけなかったときがありました。震災の発生から2年半が過ぎ、そのときは久しぶりにお二人の元を訪ねたのですが、美恵子さんから「これ見てもらえる?」と、美恵子さん自身の日記を渡されました。
美恵子さんが日記を書いていることはなんとなく知っていましたが、日記なんて他人が見てはいけないと思っていたので、「本当に見ていいですか?」と念を押してから拝見しました。
自然にかばんの中のペンとノートを手に取ってその内容をメモしました。
それがたぶん初めて、美恵子さんの前でペンとノートを手にした時だったと思います。
届いたと思って届かない胸の内
それまでの取材を通じて、美恵子さんの思いはある程度わかったと思っていましたが、思い込みでした。この日記を見て、どんなに話を聞いても当時者の思いを本当に知ることはできない、家族を失った悲しみは想像できないほど深く決して消えることはないことを痛感しました。
それからは訪れるたびに美恵子さんにお願いをして日記を見せていただきました。
美恵子さんがわかめの養殖の仕事を再開した日に書かれていたことが胸に刺さりました。
他人には、美恵子さんが新たな一歩に踏み出したように見えたと思いますが、海の上からは未希さんがいた防災対策庁舎が見えたのでした。
民宿を襲ったコロナ禍、思いついた“秘策”
民宿は「未希の家」と名付けられ、震災の発生から3年余りたった2014年7月にオープンしました。
1日1組限定で、小さな宿には国内外から多くの人が訪れました。
津波で自宅を流され、家族を失ったご遺族、被災地のボランティア、未希さんと同年代の人、外国からの観光客、重い病気を患った人、ご両親にも多くの出会いがありました。
私も民宿の近くに来たとき、美恵子さんの大きな笑い声が外に響いているのを聞いて、なんか嬉しくてそのまま帰ったこともありました。
もう10回は「未希の家」に宿泊したと思いますが、そのたびに2人は未希さんをそばに感じながら宿泊客と話したり笑ったりしているのだと感じました。
多いときは宿泊客は年に数百人いましたが、ここにも新型コロナウイルスが暗い影を落としました。
感染拡大が始まった2020年から2年間、休業を余儀なくされ、受け入れを再開した去年1年間の宿泊客は、約70人にとどまりました。
それでも2人は着々と次の準備を進めていました。これまでお世話になった人たちにピザを焼くためのピザ釜を、一から自分たちで作ったのです。
電話で内容を聞いて、「これはやられた」と思ってしまいました。釜をつくる様子を取材しておけば・・残念ながら取材できなかったのですが、2人は前を向いている、そんな思いを強くしたのでした。
2年ぶりの南三陸町
ことし2月、南三陸町を訪れました。東京から山形に異動したあと、去年、山形からまた東京に異動したりなどで、南三陸町は約2年ぶりでした。
海沿いには防潮堤が張り巡らされ、近くまで行かないと海は見えません。特に変わったと感じたのは、街なかで子どもの姿をあまり見かけなくなったことです。町の人口は震災前の約3分の2の、1万2000人に減りました。
この日の海はとても穏やかでした。遠藤さん宅を訪ねると、いつもと変わらず2人は笑顔で私を迎えてくれて本当に実家に帰ってきたような感じで、この日もいつもと同じようにペンとノートを持つことなく話が始まりました。
受け入れを再開したあとの宿帳には、宿泊客のメッセージがつづられていました。
小さな宿で2人は訪れた人に震災のことを語り伝え、2人は宿泊客から笑顔をもらう、そうした日々が今も続いていました。
もう一度夏祭りに行ける日まで
民宿の調理場には未希さんの写真が飾られています。
6年前、美恵子さんは日記にこんなことを書いていました。
美恵子さんが夏祭りで笑えるようになるまで、「未希の家」を取材し続けようと思っています。同時に、伝え続けていくことの意味をいつも考えていきたいと思います。
後藤岳彦 災害・気象センター
2002年入局。初任地は福井局。2010年に赴任した仙台放送局で東日本大震災を経験。その後、ネットワーク報道部、山形局などを経て災害•気象センター。この12年間、宮城県南三陸町で取材を続ける。山形局でデスクとなり、南三陸町になかなか行けなかったが、山形局の後輩の記者たちが南三陸町や防災などを積極的に取材し、番組やリポートを制作。その姿を見て、私自身、伝えていく大切さを改めて強く実感している。