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私は本来の人生を知らない。

特にポジティブな面を。

ずっとかなしさであふれていた。

それは家庭環境が他と比べてよろしくなかったこともあるし、親からの十分な愛情を貰っていなかったからもあるし、それらの外的要因で内的要因もネガティブなものになってしまったことも関係している。

生ぬるい人生を歩んできた。

中学受験はしたけど、1次は落ちてほとんどの人が受かる2次で救われたし、今はそこ2次も無いけれど、そういう「運」は強かった。

中高一貫校なので、もちろん高校受験もなく、大学受験は推薦で交わして来たし、大学生活もコロナで人と関わることも少なくなり、就活や卒論はやる気が出せそうになくて、ほとんどやらずに時間が過ぎていくだけの砂のような日々を送っている。

それでも「ツラい」と思う方が多かったのは、おそらく何かしらの精神的な病になっていたと考えても無理はないと考えている。

父に「勉強しろ」の一言で勉強が嫌いにも苦手にもなり、勉強しないと何でも禁止にされ、頭を使わずに生きていて、家族からは「お前は馬鹿だ」と言われて育ってきたのであれば、もちろくでない子に仕上がった。

恋愛もちゃんとしたことは一度もないし、好きになった人はいるけれど、おそらくそれは「恋に恋した」と言っても過言じゃないくらいちゃんとは好きになれなかった。
好きな人がいても付き合っている姿は想像が出来ず、「恋している自分」を好きになった。

まぁ、それは「異性のことを好きになった場合」の話であるし、私は一度同性を5年くらい好きになったことはあるけれど、同性である場合は少し違ってくる気がして少し考える。

女性と本気で付き合うとは一体何なのか。
性に対しては、しない方向で考えている。
友達と何が違うのか。そこに境界線を付ける必要はあるのか。様々悩んだけど、「好き」なことにはかわりないからいい、と最終的に投げやりな考え方で片付いた。

話は戻すと、両親のお互いの愛のなさを見てくると、自分にも恋愛は要らないし、渇き切った関係でいいやとすら錯覚する。恐ろしい家族である。

そんな環境に育つと自分も信用できなくなり、もちろん他人も信用出来なくなる。

というか、「自分とは何か?」という問いを考えすぎて、今でもふと考えることがあるくらい自分が正直分からない。

先日、ポイントが多く付く日であったため、買い物をしていると、近頃気になっていたリップがあり、買うか迷っていたのだが、日頃自分が頑張っているからと思い、購入した。
それを購入し自宅へ帰ろうとしている最中にふと「これは本当に自分が欲しかったものだっまのか?貰って嬉しく感じたのか」を考えてしまった。嬉しくなかったのだ。
家で少し付けて満足して終わったが、プレゼントに対して喜んだ記憶があまりなかったなぁと振り返って思う。

原因として、誕生日に家族からプレゼントが貰えていなかったことが関係していると思う。
幼い頃にいつも誕生日ケーキは毎年食べていた。
私は他にもプレゼントが欲しいと思い、母親に「誕生日プレゼントは?」と訊いたら「料理に愛情入れておいたよ」と交わされた。
母親は結構からかうことが多く、その度に私は傷ついた。
欲しかったものを貰えなくなると人間は欲しがらなくなる。そして、それを時間が経った後に貰っても喜びは軽減されてしまう。
だから私が誕生日プレゼントを貰ってもあまり嬉しいとは思えず、「無」のような近い感情しか抱けなくなるのだ。

私は特に努力をしようともせずここまでやって来てしまうと、いざ努力せざるを得ない状況になった時頑張れなくなってしまう。
それが就活や卒論のように。
ただただ親の脛を齧っているだけだった。
そんな自分に呆れたりもしたし、これは一種の復讐なのかなとも思ったりもした。

いつかは甘えたくなる。そういう風に人間は出来ていて、甘え期が今更来たような気がする。反対に言うならば「イヤイヤ期」だろうか。

SNSで輝いているように見える不特定多数の人たちを見ていると羨ましくなる。
その人たちは色んな努力をして、ここまで来たんだろうな。
私にも本気で努力できるようなものが欲しい。環境が欲しい。愛が欲しい。

いつになったら叶うのだろうか。叶うと思っている考え方が甘いのか。それは生きていかなくては結果が分からない。私の線路は何処やら。

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