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映画を見る:旅のおわり世界のはじまり【エッセイ】

世界のはじまりはどこからやってくるのだろうか?それは旅がおわるときだ。でも旅のおわりは旅のとちゅうでね。
この映画はこう教えてくれる。

旅とはなんだろう?世界とはなんだろう?少なくともわかるのは、「旅行」とか「グローバル」っていうような、けち臭いものではないことは確かだ。まったく人が生きるということに直接に関わってくるってのに、脳みそが凝り固まってしまって他者にも押し付けようとする大人が決めつけたような概念では決してないだろう?

Amazonレビューは☆1だ!だが最高の映画だ!

黒沢清監督『旅のおわり世界のはじまり』(2020)、前田敦子主演の本作はウズベキスタンを舞台にテレビ番組の街のレポート取材撮影の設定で展開されていく。
しかしどうも番組ディレクター(染谷将太)の態度も悪いし、リポーター(前田敦子)も田舎くさくて好感が持てず、現地ウズベキスタン人も不気味で、あれもこれも全体にぎくしゃくしてしまっていて、居心地が悪い。まったく気分が悪いではないか!レビュー☆1だ!(ジョークだよ☆)

なあんてことが起こってしまうのがAmazonレビューであるが、一方でそうした評価の低さが、この映画の(私の)評価の高さを裏付けている。

居心地が悪いなら立って観よう!

さて、この不快感そのものを、ただのうのうと座って映画を見ている私たちに味合わせてやろう。異郷の地での奇妙な疎外感。ディレクターに振り回されて自分の立ち位置を揺さぶられていく不安感。そういったあり方の空虚さ。対話の拒否。したがって偏狭さ。倫理の欠如。世に跋扈するミソジニー。やるせなさ。それによる無気力と倦怠。
この不愉快さは現地ウズベキスタンを踏み荒らし、さらに次元を超えて見る者のパーソナルスペースまで侵入してくる。

目の中に不安があるか・・・

だがどうだろう。この不愉快さは。不快感は。居心地の悪さは。これらは確実に私たちを突き動かし、情動をあふれ出させる。どんどんどんどん逸脱していく。

道にさまよい、とある劇場でわたしは歌い始める。旅はおわった。世界がはじまる・・・

警備員に見つかった!戻らなきゃ・・・世界がおわり、旅がはじまる。

・・・

ああ、いつのまにリポーターは撮られる側から撮る側へ?
大型カメラは小型カメラになり、逃げだしていく。前田敦子走れ!走れ!
はっはっは、振り切った!大型カメラから振り切ったぞ!しかし走ったその先は自滅だろうか?警察に追われたぞ!カメラなんて捨ててしまった。わたしは、わたしは、わたしは!・・・旅がおわり、世界がはじまる。

・・・

逸脱はダメなの?ほら、世界ははじまったよ

逸脱は違法だろうか?私は捕まってしまった。
でも、違ったみたい。わたしがあなたと対話してなかったみたい。
・・・世界はおわったの?
いいえ、もうわたしは知ったの。
旅がおわるのは必ずしも旅の終わりじゃない。旅はとちゅうで終わるのよ。そもそも旅に始まりも終わりもない。いつだってとちゅうだし、とちゅうではじまり、とちゅうでおわるのよ。そのとき世界がはじまる。世界に接続される。

そうして私は高原になった。ヤギのオクーになった。舞台歌手になった。
そのとき世界がはじまる。

私が世界に生成変化していく

共有された不愉快さによって演者だけではなく、まさに私たちと映画とが接続され、こうして私たちの旅がおわり、世界のはじまりへと開けていくことが可能になる。
旅はおわるんです、いつだって、いつでも世界ははじまる。世界がおわったって、また旅はおわるんです。いつだって、いつでも世界ははじまる。

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