見出し画像

「この大問題を誰も取材しないで良いのだろうか」樫田秀樹さん(フリージャーナリスト)

フリージャーナリストの樫田秀樹さんはライフワークとして、熱帯林開発とパーム油の問題も追い続けているが、現在の主な取材対象は「リニア中央新幹線」と「難民・入管問題」だ。いずれもマスメディアが積極的に報道しないテーマである。今回は、社会問題から環境問題、幅広い分野を扱う樫田さんにお話しを伺った。

DEAR News199号(2020年10月/定価500円)の「ひと」コーナー掲載記事です。DEAR会員には掲載誌を1部無料でお届けしています。
樫田さんの最新情報はこちら
・Twitter https://twitter.com/kashidahideki
・Blog「記事の裏だって伝えたい」 http://shuzaikoara.blog39.fc2.com/

「バイク野郎」からジャーナリストへ

18歳の頃、樫田さんはバイクで世界を旅する「バイク野郎」になる夢を持った。大学生時代はアフリカのサハラ砂漠を、卒業後は就職せずにオーストラリアへ渡航し、バイク旅を実現した。そして、先住民族・アボリジニが住む地域で活動している慈善団体と出会った。23歳の樫田さんはその活動に感化され、「旅ではなく、どこかに住み込んで人の役に立つことがしたい」と決意した。

画像1

最初に飛び込んだのは、ソマリアの難民キャンプでのNGO活動だ。しかし、ここで「善意は使いようによっては、良い方にも悪い方にも働く」現実を知る。活動の方向も「組織の一員」として働く自分の意志ではどうにもならない。灼熱の厳しい気候も重なり、2年間で心身ともに疲れて果ててしまった。「砂漠でなく緑、アフリカと真逆のところへ…」と、アジアで活動できそうな団体を探すことに。片っ端から手紙を送り、唯一返事が来たのがマレーシアのFoE(国際環境NGO・Friends of the Earth)だった。1989年5月、手紙に書かれたわずかな情報を頼りに、樫田さんはマレーシアに赴いた。

1980年代後半、日本では森林破壊の報道ブームがあった。一方、マレーシアでは1987年に施行された国内治安維持法(Internal Security Act・通称ISA)により、反政府運動や環境保護活動の取り締まりが強化され、多くの市民活動家が一斉逮捕され、新聞社は発禁処分を受けていた。

市民活動家の中に会いたい人がいた樫田さんは、自宅で軟禁状態と聞くものの「行けばなんとかなるだろう」と、活動家が住むボルネオ島に飛んだ。ボルネオでは偶然出会った先住民族と共に行動し、活動家とも対面できた。3か月間かれらの村に暮らし、家族・地域・自然を大切にしながら生きる姿に魅了された。

ある日、日本の雑誌の担当者から「ボルネオの現状を書いてみないか」と声がかかり、記事を執筆することになった。原稿用紙に手書きしてファクスで送るという、地道で慣れない作業の末、記事は掲載され、執筆料が支払われた。これが、ジャーナリストとしての初仕事となった。しかしそれは、記者経験のない人物に依頼しなければならないほど、現地を取材する日本の記者がいないことを意味していた。伐採された木材の主な輸出先は日本であるにもかかわらず、だ。樫田さんは危機感を抱いた。

画像4

本名で活動できない!?…そして、逮捕

ボルネオ島サラワク州の熱帯林伐採と、伐採用道路を自ら封鎖して闘う先住民族の活動が日本でも大きく報道されると共に、州政府による市民活動家やジャーナリストへの取り締まりも厳しくなった。

サラワク州には世界遺産のグヌン・ムル国立公園がある。先住民族のブラワン族が住んでいたエリアだが、土地は奪われ、1993年に5つ星ホテルが造成された。樫田さんはテレビ局を伴ったスタディツアーでホテルを取材したのだが、実はこのホテルのオーナーは、州知事の家族だった。樫田さんは「地域住民を反政府運動に扇動する外国人」と見なされ、マレーシア秘密警察に違法入国者扱いで逮捕されてしまった。

検査のために身に着けていたものや所持品は持ち去られ、椅子も寝床も何もない独房に拘留された。尋問と長時間の放置による過度のストレスから、全身の力と血の気が引いていった感覚は今でも忘れられないという。拘留は1週間で終わり帰国させられたが、以後、99年までマレーシアを再訪することはできなかった。

日本のメディアに掲載された記事も、州政府にチェックされている模様だった。「92年頃から州政府に目をつけられていて、本名ではなくペンネームを使っていました。電話もファクスも盗聴されているかもしれず、手紙すら相手に届いて返信がくるかわからない状態でした」と、当時の危険な状況を教えてくれた。

人権団体でさえ向き合ってこなかった入管問題

サラワクについての執筆、講演、スタディツアーの仕事を失い、樫田さんは今後の生き方を思い悩んだという。その時「日本でも同じように社会問題や環境問題に闘っている人たちがいる。その人たちを取材しよう!」と目が開かれたそうだ。

ここ2年にわたり取材している入管問題は、ウェブメディアからの依頼により1回の取材で終わる予定だった。しかし、初めて牛久入管(東日本入国管理センター)に行ったとき、その惨状に衝撃を受け、後に引けなくなった。独房に放置され、ハンガーストライキが多発したことなど、報道はあまりにも少なく、現状が市民に知られていない。

実は、本記事の取材当日も、樫田さんは市民団体と共に東京入管へ行っていた。コロナ禍において、外部接触がない収容者にも感染者が出たことなど、今の様子も教えてくれた。複数の一般市民が「ツイッターで拡散されて問題を知り、いてもたってもいられなくなった」と現場に駆けつけていたという。

画像3

入管問題の捉え方は、その人やその組織の「人権」への向き合い方が分かる指標になるそうだ。「NGOも含め、日本人は遠い国の難民にはそれなりに興味を示すけれど、日本にいる難民には目を向けてこなかったのではないでしょうか。編集者の中には『不法滞在者でしょ、自業自得だよ』と入管問題を退ける人もいる。人権を、その組織や人がどれだけ真摯に捉えているかを示すバロメータになります」

報道タブー=リニア中央新幹線

では、リニアはどうか?「リニアには『報道タブー』があります。JR東海が国と手掛ける巨大プロジェクトだからです。マスコミは自分のスポンサーが絡むと手が出せないのです」。この大問題を誰も取材しないで良いのだろうかと、樫田さんは1999年から追っている。

画像4

ここから先は

1,036字

¥ 100

期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?