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【ブッダ】自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング アルボムッレ・スマナサーラ

学びたいものがあり過ぎて

中途半端過ぎる学びではありますが、

現状できることとして

『自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング』
アルボムッレ・スマナサーラ

の第3章で眼に留まったもの

を残させて頂きます。

第3章 事実による教育


何かのために死んだら失敗


 日本の文化は、自殺を応援する文化ですが、
何かのために死ぬなんて、馬鹿なことです。
それに勝った人がヒーローであって、
負けた人はヒーローではありません。
日本では特攻隊のことを悪く言いませんが、
日本は負けたのですよ。
 国のために死ぬとか、会社のために死ぬとか、
宗教のために死ぬとかいうのは、ぜんぶごまかしです。
誰かが目的を達するために洗脳しているのです。
人間は、他者のために死ぬ必要はないのです。
こういう場合には、
「自分の命は自分のものだ」と思ってかまいません。
しかし同時に
「自分の命は、みんなと協力しないと成り立たない」
ということです。
それを覚えておくことです。
「みんなで仲良く、人を生かして自分も生きる」
というのが正しい道なのです。
 誰かのために死んだら、仏教では失敗です。
より若い固体を生かすのは自然法則ですから、
子供を助けるために親が死ぬことはありますが、
それでも子供は「自分を助けるために親が死んだ」
という思いをずっと背負っていかなければなりません。
そこで汚点がついているのです。
世間は子のために死んだ親を褒め称えるかもしれませんが、
肝心の助けてもらった人は、
ものすごく重い思いを背負わなければならないのです。
ですから誰も死なないほうがいいのです。
 一番の失敗は自殺です。
特攻隊なら敵の艦を傷つけたということもあるでしょうが、
自殺にはそれさえもありません。
それなのに「死んだら天国だ」とか言うのは、
まったくよくありません。

「自分の命は自分の勝手」は間違い


 大人に「命を大切にしなさい」と言われると、
子供は「自分の命だから好きにしていいではないか」
と言い返したりするものですが、
この言い草はおそろしく無知な誤解に基づいています。
 なにしろ「自分、自分」と言いますが、
そんなものは言葉だけなのですからね。
はじめから「自分」なんて、ないのです。
「自分の命だ」というのなら聞きたいのですが、
あなたは、自分で考えて生まれたのですか?
そんなこと、本人も知らないでしょう?
振り返ってみたら生まれているだけでしょう?
自我意識が生まれてくるのは、
せいぜい生まれて一年くらい経ってからですよ。
「自分がいるんだ」と。
自分も知らないうちに、
自分には何も管理できないところで生まれたのですから、
「自分の命だから自分の勝手」
という理屈は成り立たないのです。
 それに「自分の命だ」というのなら、
自分のことは自分の思うままになるはずです。
「私のお腹だから、私の勝手。余計な口を出すな」ということで、
「私はご飯を食べないでいるぞ」とか
「私は枯れ枝を毎日一〇本食べるぞ」とか決めたらどうですか。
そんなことは成り立たないでしょう?
人間に生まれたら何を食べるのか決まっていて、
我々はその決まったシステムの中で生きるしかないのです。
「自分の命だから自分の勝手。
私は酸素ではなくて窒素を呼吸して生きるぞ」
というわけにはいかないのです。

「生きるのは楽だ」という勘違い


 生きるのは大変です。苦しく、困難に満ちています。
これは「理解」する必要はありません。
事実ですから「受け入れる」だけのことです。
 これほと明々白々たる事実なのに、
きちんと受け止めている人はむしろ少数派です。
大人もろくに知らないので、子供にきちんと教えてもいません。
今の子供たちは「生きることは大変なことだよ」
と教えてもらっていないのです。
 それで子供たちは、「生きることは楽だ」と勘違いしてしまいます。
学校に行けば赤い絨毯を敷いて出迎えてくれると思っている。
家庭では王子様・王女様のように楽に暮らし、
将来は楽しく、死んでも天国だと思っている。
会社に入る若者は、会社に行ったら、
社長が花束を持って待っていると思っている。
 そんな人生はどこにもありません。
彼らは幻覚の中で生きているのです。
まったく事実を見ていません。具体的ではありません。
それでも一生幻覚から目覚めなければ都合がよいのですが、
実際には目を開けばすべて厳しい現実です。
何一つとして希望どおりには運ばないのです。
 ですから子供が知っておくべきことは「事実のみ」です。
「勉強するのも大変だ。しっかり勉強しなければ、
恥ずかしく、悔しい思いをするのだ」
と知っておけばいいのです。
 現実に対処できなければ、生きていくことはできません。
ちょっと苦しいだけで「ああ、嫌だ」と逃げてしまうのでは、
腰抜けです。それでは生きていけないのです。
誰も彼もが必死で大変だというのに、
誰が好き好んで立ち上がろうともしない人を
背負って山道を歩いてくれるというのでしょうか。
 だから子供たちには、
「生きる苦しみに対応する実際に役に立つ生き方」を、
「競争に対応できる勇気」を叩き込まなくてはならないのです。
「生きるのは大変だ」という現実がある以上、
その現実に対応する力をつけてやるしかないのです。
それがこれから生きて行く子供たちにしてやれる教育というものです。
 生きるのが大変だからといって、
子供に「大変だ、大変だ」と言うことはありません。
ただ事実を見せてあげればいいのです。
「あなたを育てるために、
私たちはしたいことも我慢して、大変苦労をしていますよ」
というのは子供が萎縮するのでよくないし、
ゲームを欲しがる子供に
「そのゲームは高くて買えません。
お父さんのお給料はこれだけしいいから。
それでもあなたは欲しいですか?」
と言ってもピンときません。
そうなくて、子供がいちばんよくわかるのは食べ物のことですから、
「ゲームは三〇〇〇円します。
晩ごはんに一五〇〇円かかります。朝ごはんは一〇〇〇円です。
ですから、みんなで晩ごはんを一回抜きましょう。
朝ごはんも今日と明日は我慢しましょう」
と言えばどうですか。
そうしたら子供は
「ゲームよりご飯がいい」
「前に買ってもらったゲームでしばらく我慢しよう」
と自分で考えるようにもなるのです。
 人間は、嘘を言わず、インチキをせず、
現実に即して具体的に育てるべきです。
「神様が人間を創りました」というのは、
なんの証拠もない、いい加減な考えです。
全知全能の神様が創ったのなら、世界は完璧で幸福なはずです。
実際にはそうではないでしよう。
弱肉強食で、生きるのが大変な世界なのです。
だったら全知全能の神様なんて嘘だということになるのです。
「全知全能の偉大なる神様が、
この世界を、人間を作りました」
なんて教えるのは、間違っているのです。

「ジュースをくださいと言いなさい」


 今の母親たちには、自然の知識が一つもありません。
「ごめんね」とか言いながら、
家政婦か奴隷のように子供を育てればいいと思っている。
「一生懸命やらなくては、稼いでくる主人に悪い」
とかいうのは、奴隷のようで不自然でしょう。
旦那に雇われているわけではないのですよ。
奥さんが家のことをしなければ、旦那は会社で働けないのだから、
権利は五分五分です。堂々と生きていればいいのです。
子供にも、嫌なものは嫌だと言わなければなりません。
言うべきときに「そんなことやったら大嫌い」
「しゃべりません」「あなたはもう嫌いだから」などと言えば、
子供はいっぺんに直りますよ。
二度とそんなことをしないようになります。
子供が「ジュース飲みたい!」みたいにしか言わないなら、
「ジュースをくださいと言いなさい」とさとして、
それでも汚い言葉しか使わないなら知らんぷりすればいいのです。
「あなた何か忘れているでしょう。
ジュースをくださいと言わなければ、わかりませんよ」と。
それがいずれ一人で生きていく子供に対する
親のやさしさというものなのです。
 忙しくてかまってやれないときには「ごめん、ごめん」ではなくて、
「忙しいから黙っていなさい」と言うことも必要です。
自分が何かしてほしくても親が忙しいときには、
子供はちょっと待たなければいけないのです。
どうしても待てないなら「待てない、お願い」と「お願い」
のひと言くらい子供は言えなくてはなりません。
その場合は、母親は
「お願いしますと言うなら、お仕事をやめてやってあげますよ」
と応じるのです。
このように行儀作法を教えたら、小さな子供はびしっと覚えますよ。
そうやって子供は人生を学んでいくのです。
 子供には、「生きることは大変だ」
という事実を教えなくてはなりません。
嘘を言ってはいけません。
それから「勇気」と「忍耐」を教えることが大切です。
「お母さんは、あなたが世界一かわいい。
だけどみんなはお母さんとは違います。
いいことをしなければ、かわいいと思ってくれないのですよ。
悪いことをしたら、みんなに嫌われますよ。
あなたがみんなに嫌われたら、お母さんは悲しくてたまりません」
と子供に言うのです。
すると子供は、外へ出ても母親が悲しくなるようなことはしないものです。いじめることも、いじめられることもありません。
 かなり前のことですが、日本のどなたかのお家に行ったら、
二、三歳の小さな女の子がいたのです。
珍しい客だし、いろいろやりたかったのでしょうね。
その子が私のところにアメ玉を持ってきて、お茶の横に置きました。
お母さんからちょっと仕事をもらったのです。
でもその子はそれでは終わりません。何かやってみたい。
それで私に「はいどうぞ」と一つ渡してくれたのです。
子供が一生懸命やっていることだから、
私も「ありがとう」とそれをもらって、包みを開けて一つ口に入れました。するとその子が言うのです。
「自分が食べたのだから、自分でゴミ箱に捨てなくちゃいけないのよ」と。すごいでしょう?(笑)
初めてやって来た人にそんなことを言うのです。
自分ではやらないかもしれないけれど、
他人に教えるくらい親のしつけがしっかりとわかっているのだから、
もう充分です。
そこで私も子供に負けてはいけないので、
「ゴミ箱はどこにあるのでしようか?
私は初めて来たからわかりませんよ。
あなた知ってる?
ああ、そう。じゃ、お願いします」と応じたのです。
そしたら子供がまた大人みたいになって、
「じゃあ捨ててきてあげましょう」ということになりました。
本当に、子供といるといきなり智慧比べが始まるのですよ。
大人が、自分でゴミ箱に捨ててしまったら大人の負け。
私は親が教えたしつけに微妙に付け足して、
相手の立場で考えることを教えてあげたのです。

友達と仲良くするのも楽じゃない


 我々には「生き延びる術」が必要です。
サバイバルする能力を身に付けなければなりせん。
人を騙して生きるのではなくて、
正直を通してサバイバルできれば最高でしょう。
 嫌な仲間がいるのなら、
そういう連中の中でどうやって生きていくのか、
それもまた挑戦です。
それは今も昔も、国が違っても同じです。
教室に入ると、すごく厳しい顔、
犯罪者みたいな顔、いろいろあるのです。
見たら、怖くなりますよ。私もそうでした。
そのとき思ったのは、
「こいつらと一年やっていかなくてはならないんだ。
どうすれば、うまくいくだろう」
ということでした。
 友達に何かお願いするときには、ニコッと笑って
「これ、やってくれないかな?」
とか言うのです。
すると相手は、なんのことはなく協力する気分になるものです。
私は小柄でしたが、そうやったら大きな子が
「この子は小さいから、守るのは俺たちの仕事だ」
ということにまでなりました。
ちょっと彼らの気に障る態度を取ろうものなら、
何をされるかわかったものではありませし、
喧嘩ばかりしている連中でしたけれど、
とてもやさしかったですよ。
畑を耕すような力仕事は「どけどけ、僕がやるから」と、
私の分までやってくれる。
私は私で「だったら僕は種を播くから」とやれることをやりました。
お互い協力しあうのです。
先生にしても、「みんなでできているのだから問題ない」
という感じで見ていました。
自分ができることをする。
それだけのこと。世界はシンプルですよ。
それは今も同じです。

森に熊がいることを知っていれば大丈夫


 人生はどちらを選んでもいいのです。
どちらを選んでも、最終的にはろくな結果ではないのです。
独身でいても人生は苦しいし、
結婚しても人生は苦しいのです。
独身でいて歳を取ってジジイになって死んでもロクなことはないし、
結婚して歳を取ってジジイになって死んでもロクなことはないのです。
しかしそれでも生きていればどちらかを選ばなければならないし、
おたおたしていても最終的には選ぶことになるのです。
結婚しなければ独身ですからね。
 自分が結婚せずに独身でいて、
独身生活に文句を言うのはおかしいでしょう?
それは屁理屈です。そんな権利はもうありません。
結婚したなら、結婚生活に文句を言う権利はありません。
男も女も優しいのは結婚前だけと決まっているのだから、
それを最初から知っていれば大丈夫でしょう?
優しくて、すごく気がきいて、一緒にいると楽しくてたまらない。
そんな人と結婚しても、そんな態度は結婚後一週間で終わりです。
それを肝に銘じておけば、変身してもなんのことはありません。
最初から知っていたのですからね。
 大人になる道には、一つも楽しいことはありません。
子供は自然の流れで大人になるしかありません。
熊のいる森に入るしかありません。
嫌なら宇宙の時計を止めるしかありませんが、
それは誰にもできません。
でも森に熊がいることを知っていれば安全です。
それだけの単純な人生論です。


こちらの内容は、

『自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング』

発行 株式会社宝島社
著者 アルボムッレ・スマナサーラ
2007年3月24日発行

を引用させて頂いています。



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