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【禅 ZEN】心(こころ)①

―心(こころ(しん))―

書=石飛 博光 35×45cm

 禅の教えでは、
すべての人は誰もが皆、
本来何も発生しない
空気のような仏心を持つ
としている。
それが根本に存在している。
心は形あるものではないが、
人々は自分の心を知りたい、
わかりたいという思いをもつ。
禅の言葉には、それらを
導き出すヒントが備わっている。
そういう意味での「公案」なんです。

心(こころ(しん))

分類「無住心」

――あなたを輝かせる"心"の存在


栄西禅師は「興禅護国論』で、
「大いなる哉心や」と、
天より高く、地より深く、
日月の光より輝き、
果てしなき宇宙をも超越した存在が心であると
説く。そんな心を持っているのが自分
であり、それこそが本来の面目。


 『顧係要門』著者の大珠慧海禅師は、
馬祖道一禅師の法嗣 (奥義を受け継いだ者)
であり、学者でもあります。
禅者には珍しく、禅籍を引用して学問的に説明しており、
次のような自問自答形式になっています。
 Q「何から修行すればいいのですか?」
A「根本から修行しなさい」/
Q「どのように根本から修行するのですか?」
A「心が根本です」/
Q「根本を修行するにはどうしたらいいのですか?」
A「ただ、坐禅して禅定すれば根本がえられます」/
Q「何が禅、何が定(確かなこと)ですか?」
A「妄念が不生、空無であると信じるのが禅。
坐禅してあなたの本性の無生心を見るのが定です」
本心とは、無生心や仏心仏性を示します。
これは、きれいな心や良い心といった性善説を見るのではなく、
全く何も生じない、無生心を見抜くことが目的です。
Q「心をどこにとどめたらよいですか?」
A「とどまることのない所にとどめなさい」。
 満開の桜が光の滴を放ち
「あっ、自分が輝いた」という気分は、
無住心・仏心仏性の境地です。
誰もが持つ、すべての根本であるものが心。
無限で何ものをも超越した存在である心を磨くことで、
自分自身が向上し、輝いていくのです。

一無(む)一

書=加藤 有鄰 35×34cm

 本心とは、誰もが持つ何も生じない心のこと。
自己の心に何も生じない状態をさす。
自己の心が
いかなる対象にも同化できる状態
も同じである。
つまり無とは、ページ以降で知る
無生心や無住心を含む仏心仏性、
または無常であること
を一文字で表している。

心を見つめる無の境地


 禅を極めるとは、「無」の心を獲得することです。
坐禅を組み、自らの心の本質と向き合い、
悩み、見抜くことで無の境地に辿り着くのです。
 とはいえ、その「無」を理解するのは、
並大抵のことではありません。
何年と修行をして、やっと得られるものだと聞きます。
それを少しでも理解してもらうために、
一つの例えを出してみましょう。
 目の前の空気を感じてみてください。
あなたの目の前には空気があります。
この空気には、
汚いものもなければ、きれいなものもない。
増えるものも、滅するものもない。
赤も、白も、そして目も鼻も口もないのです。
空気は、寂然(じゃくねん)として、
空気としてただそこに存在するだけのものです。
 それを禅の世界では「無」というのです。
少しは感じることができたでしょうか?
禅は知識で得るものではなく、
肌で感じるもの、センスです。
坐禅を組み、その無を感じ、
妄想や想像、知識といった俗世から離れ、
心の根本を見つめるのです。

―無生心(むしょうしん)ー

書=室井 玄聳 26×68cm

 「無生心」とは、有る・無いの
「無い」を表しているのではなく、
そこにものは何もなく入ってこない仏心仏性のこと。
人間における根本とは心。
心が根本で、
その心の中に妄念も邪念も何もないのが無生心であり、
坐って無生心になることを坐禅という。

禅のキーワードは2つ「無生心」と「無住心」


 禅の世界は奥深く、
坐禅を組んだこともない人たちには難しいものです。
たしかに、知れば知るほど
辿り着く道のりの遠さに驚きます。
一度に理解しようと思ってもそれは無理な話です。
 そこで、はじめの一歩として
禅の世界をひも解くために、
禅の言葉を2つに分けて考えてみましょう。
「無生心」と「無住心」という言葉がそれです。
 「無生心」とは、先のページでも書いた
「無」になるという「心の状態」のことを指します。
坐禅を組み、心の中を平穏に保つことで、
無の世界を体感する、この心の状態をいうのです。
 無生心の状態には、
汚れたものや妄念など不の要素だけではなく、
逆に、きれいなもの、聖なるものもありません。
けれども、
「なにもない」ということでもないのです。
時々刻々と変化して実体はつかめないが、
それぞれの現象が幻として出ているととらえます。
そこになにかが入ってくることはありません。
簡単な言葉で言ってしまえば、
無心・無我になることなのです。
 無生心は
そうやすやすと手に入るものではありませんが、
坐禅を組み、己を見つめ、
何十年もかけて手に入れる、
禅の世界の一つの到達点でもあるのです。

―無住心(むじゅうしん)―

書=渡辺 美明 70×23cm

 宇宙の全てに私がいることができる。
どこにでも私は行ける。
この感覚が「無住心」。
「無住心」は仏心であるから、
心の中であらゆるものにつながることができる。
私は一人じゃない。
ここにもいる。
あそこにもいる。
あなたの中にもいる。
宇宙的な見地を無住心という。

「無生心」の先にある「無住心」


 「無住心」は、「無生心」のさらに先にある到達点です。
無生心を獲得したのち、さらに坐禅を組み続けることによって、
己が何ものにもなれるという感覚を手にすることができます。
無我で何ものでもなくなっている「無生心」の状態でいる自分は、
何ものにもなれる、という考え方です。
 例えば、目の前にある桜の木になることもできますし、
あなたのお母さんになることもできます。
あなたの魂が自由に物体に入り込めるので、
誰にでも、何にでも同化することができます。
空気を介して世界はつながっています。
「無住心」を獲得することによって、
世界と繋がることができるのです。
禅の世界では植物や動物に
さも同化しているかのような文章が出てくることがありますが、
これは「無住心」になっていると考えることができます。
 この本では、禅語を「無生心」と「無住心」に分類して、
各ページにそれを記しました。
禅語の多くがこの2つに分類できるからです。
この「無生心」「無住心」という考え方を頭の隅に置いて読んでいくと、
さらに深い考え方ができるようになります。

坐禅で「無生心」を得る

 坐禅をすると、
色んな思い(=邪念)が心の中に出てくる。
これでは、無生心は得られない。
禅では、思い浮かんだことを
「無」「不」「砕」「斬」という字で消す、
「喝」と怒鳴るなど、
様々な方法で消していく。

「無住心」とは

 美しい満開の桜と自分が一つになり、
桜の輝きは自分の輝きという感覚は、
自我を忘れた無我の境地を表す。
春の太陽が射し、桜の花の滴が光るのを見て、
自分自身が光り輝くと感じる。
心はどこにでも住み、
あなたが他の誰かに入ることもできる。
すると、あなたの悲しみは誰かの悲しみに、
誰かの喜びはあなたの喜びにもなる。
この一体感、これを「無住心」という。

一空(くう)一

書=鈴木大有 34×46cm

 「空」という言葉には
無生心、そして無常ということを意味している。
実態がつかめないのが空であり、
常に同じ状態ではない無常だから
「今、私は」といったところで、
それは過去になる。
空は、
形あるものも、
感受作用も、
心の動きも、
物の動きも、
認識的作用も、
何も無い。
実体や感覚、意識を超越したところに無生心がある。

空(くう)

「無生心」

―空っぽのイメージで心を軽くしよう

 『般若心経』より。
何も無い。
色(形あるもの)、
受(感覚)、
想(心の動き)、
行(ものの動き)、
識(知の動き)
の五蘊がみな空であると『般若心経』では説く。
坐禅をして、
実体、感覚、意識を超越した(空じた)ところに
無生心がある。

 言葉には、
一文字で深く意義ある内容を含んだ文字が多くあります。
そのなかで、「空」という文字は何も無い、
全てのものは実体がないということを表しています。
禅の言葉でよく出てくる「無」と同じ意味です。
 では、イメージとして
空という語がどんな姿を表しているのか、
想像してみましょう。
目をつぶって空気というものをイメージしてみます。
とても感覚的なものですが、
その中には生じるものも滅するものも、
きれいなものも汚いものも何もない。
そんな世界を思い浮かべるのです。
 この"何もない世界"を感じることは、
坐禅して自分の感覚を
改めて見つめなおす良いきっかけになります。
何か失敗をしてしまったり、
人間関係がうまくいかなくなったり、
わけもなくイライラしたりすることがあれば、
こんなときこそ、「空」をイメージしてみましょう。
そこには、邪念を消し、迷いや怒り、
苦痛や喜びさえも消し去るという、
気持ちを軽くする術が隠されています。
 毎日の生活のなかでおこる様々なことも、
考え方しだいで、大きく変わるきっかけとなります。
禅語はそれを気づかせるためのメッセージです。

仏心(ぶっしん)・仏性(ぶっしょう)とは


 禅の言葉に「仏心」「仏性」というものがあります。
これはお釈迦様が見抜いた「ブッダのさとり」
または「無生心」「無住心」と同じ境地です。
 目の前に広がる空気。
空気のような仏心仏性には、
そこには何も生じる心はないと見抜く。
これを先に「無生心」と表しましたが、
この空気こそを「仏心」ともいいます。
 また、「仏心」「仏性」は、
お釈迦様の心と一緒だともいえます。
 坐禅によって「仏心」「仏性」に目覚めること
を目標とするのが禅です。
先の「無住心」の考え方を思い出してみてください。
無住心では、何ものにも同化できますよね。
ですから、無住心では、
仏様にも一体となることができるのです。
禅の世界では、仏様は外にある偶像ではありません。
自分の心の中にいると考えるのです。
 したがってブッダのさとりである
「仏心」「仏性」を得ることがお坊さんの務めであって、
それが目標となるのです。
 あくまでも心の裡(うら)を見つめ、
また、心の裡で完結するものなのです。
禅に対峙するときには、
旧来の仏教の考え方を頭から追いやってみると
わかりやすいかもしれません。


こちらの内容は、

『こころの深呼吸 すっと気持ちが楽になる 禅語』

発行所 株式会社長岡書店
監修 松原哲明
書監修 石飛博光
2008年5月5日 発行

を引用させて頂いています。


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