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市民社会の安全保障②

3.危機管理における合理的思考

2011年、絶対安全であるといわれていた原子力発電所の事故が実際に発生し、安全神話が崩壊するとともに、それを主張してきた科学者への信頼も大きく揺らいだ。また、今年になって竹島、尖閣諸島をめぐる領土問題が発生し、わが国の国民の多数が、これまでほとんど意識していなかった国防の重要性を認識した。

いずれもこれまで「あってほしくない」、「あってはならない」、「あるはずがない」、「ありえない」と国民の多くが思い込んでいたこと、つまり「リスクゼロ」の安全神話が崩れ、そうではないこと、現実に起こりうることを知らしめられたといえよう。

原発事故は実際に発生した。軍事紛争は、まだ発生していないが、非武装中立を国是として掲げ、自らは決して侵略はしない、それゆえに他国も侵略はしてこない、と思い込んできた「平和神話」が崩壊しつつあることは否定すべくもない。

そこで、ここでは軍事的脅威に焦点を当てて、少し論じてみたい。

軍事的紛争をはじめ、国際的な紛争はわが国の一方的な考え方に基づいて抑止できるものではない。いかにわが国が正当と考え、世界の多くの国がそれを支持していたとしても、対立する相手国が同じように考えてくれるという保障はない。相手国が、本心であれ、偽装であれ、それを否定し、われわれとは異なる彼らの正当性を主張するならば、「非武装中立」「平和主義」も全く意味をなさず、平和憲法も無力である。

では、このような状況に対して、今後どのように対処すべきなのか。そもそも事態はどう展開していくのか。国民の多くが、とくに尖閣諸島をめぐる中国との紛争の今後については、不安を感じている。しかし、どうすればこの状況が確実に好転し、紛争が解決するのかということについては、策を思いつかない状態にある。

このようなとき、しばしば現れてくるのが、愛国心の高揚であり、ナショナリズムの主張である。わが国こそが正しいのであり、相手は卑劣で悪である。自信をもってわが国の主張を展開すべきであるし、いかなる状態になろうとも、国土を守るために立ち上がるべきである。わが国はその能力を有しているのであり、したがって領土は自ら守らなくてはならないし、守ることができる。

わが国の国土をしっかりと守るべきであるという主張の内容自体を否定するつもりはない。しかし、愛国心とナショナリズムの声が高まるにつれ、聞こえてくるのがその背後にある日本人の優越性の強調と、その裏返しである相手国に対する批判やその邪悪性、劣等性の指摘である。尖閣諸島の問題に関連して、ジャーナリズムやインターネット上のFBやブログにおける「嫌中」「反中」の声は、批判しがたい「空気」を作り出してきているように思われる。事情は中国でも同様であり、それがますます冷静な解決を困難にしているといえよう。

しかし、こうした精神主義と客観的な根拠を欠いた一方的な主張に傾斜することは、私は、現状において不毛であり、有益であるとは思わない。むしろ有害かもしれない。なぜならば、それはこれからの戦略を考える上で、偏見と予断を醸成し、必要とされる冷静で客観的な状況認識の目を曇らせるからである。

むしろ今必要なのは、先にフィンランドの例でみたような、起こりうる脅威を冷静、客観的に捉え、それに対して最も合理的・効率的に最善の対応を図る合理的思考ではないだろうか。尖閣問題も緊張が高まった時期から1月余が経ち、少し冷静な論調もみられるようになってきたが、まだこの種の精神主義的言説は多い。また、現れ始めた冷静に対処すべきことを主張する言説においても、不測の事態が発生したときに、国民としていかにすべきか、何をどのように守るべきか、あるいはいかに事態を終結させるべきかについての論理的・体系的な議論は極めて少ない。

それでは、このようなときの合理的な思考とは、どのようなものか。それは一言でいえば、「現状を客観的、冷静に認識、分析し、相手方をはじめ関係者の意向を探り、その行動を予測する。その状況を前提として、利用可能な資源を最大限効率的に使って、守るべき価値を、優先順位に従って最大限守る策を考える。」という思考法であろう。もちろん直面する状況は変わる。その状況の変化に対応して、自らの行動を柔軟に変更する姿勢と体制を組むことも重要であるし、何よりも多数の国民がこうした思考方法を理解し、共有することが大切である。

4.「孫子」にみられる合理的思考

ところで、こうした合理的思考の発想について考えるとき、私が思い浮かべるのが「孫子」である。「孫子の兵法」といわれるように、「孫子」は、戦時における作戦論や司令官の心がけを説いた古典的な兵書として有名である。そこに書かれていることは、実際の軍事のみならず、戦争に例えられるような熾烈な競争に明け暮れするビジネスの世界でも、教訓として引用されることが多い。

古い歴史的文書であるがゆえに、テキストも多く、その解釈をめぐって専門家の間でさまざまな議論が展開されているが、そうした訓詁学はともかく、理解できる範囲で自由に解釈してみることは有益な思考訓練になる。

「孫子」については、さまざまな理解の仕方があろうが、私は、まさに上述したような安全保障に関する合理的思考を展開した書物と理解している。すなわち、「孫子」は、弱肉強食の戦国時代において、国家が存続していくために何をすべきか、つまり国家の存続を至上の価値とし、その価値の最大化のための方法を説いている。もとより、当時の国家は、現代のような民主国家ではない。しかし、紛争状況が存在する国際関係の中で、国という団体の存続に関しては、当時でも今日でも事情はそれほど異なることはないであろう。

いうまでもないことであるが、国家が保有している資源には限界がある。他方、戦争とは、激しく資源を消費する活動である。戦争によって、国家は資源を損耗し、たとえ最終的に勝利を収めたとしても資源の損耗は国力を低下させる。それは、現代でいえば、まさに市民生活のレベルの低下を招くことになる。

「孫子」の後半の大部分は、具体的な戦術、戦い方に関する事項であるが、前半の総論ともいうべき部分や最後の「用間編」などは、こうした至上の価値としての国家の存続のために、いかに資源の損耗を最少化することができるか、その思考のあり方について論じているといえよう。

まず「孫子曰く、兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。」(計編)すなわち、軍事行動は、国家にとって「大事」であり、それによって資源を損耗すると、国家は疲弊し滅亡することになりかねない。

「およそ師を興すこと十万、出征すること千里なれば、百姓の費え、公家の奉、日に千金を費やし、内外騒動し、道路に怠り、事を操るを得ざる者七十万家、相守ること数年、もって一日の勝を争う。」(用間編)大規模な軍事行動は、長い時間と巨額の経費を必要とするが、勝敗は1日にして決まる。負ければもちろん、たとえ勝ったとしても、それらの資源を失うことになりかねない。

それゆえに、国家の存続を図る、要するに国力の損耗を避けようとするならば、そうした大量の資源の損耗を伴う戦争は、可能な限り避けるべき、ということになる。つまり、戦争を避けることがベストである。しかし、避けられないとしたら「戦わずして勝つ」のが最善ということになる。「およそ兵を用うるの法は、国を全うするを上となし、国を破るはこれに次ぐ。・・・・・・」「このゆえに、百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」(作戦編)

このように「孫子」は、資源を損耗しかねない戦争をすることには消極的である。そこから、弱腰の戦略論であるとか、なかには平和主義であるという評価もあるようだが、それは必ずしも当たっていないだろう。なぜならば、彼の論理からは、資源を浪費しない戦争や、さらには投下した資源量に対して得られるものが大きい戦争は、否定されないからである。それにゆえに合理的なのであり、その戦争による損得の計算をしっかりとすることが大切であるということになる。

こうした観点から戦略を考えるとき、現状を維持できるならば、戦争は極力避けるのがベストであることはいうまでもないが、戦わざるをえないときにも、コストの最小化を図るとともに、そのタイミングを選ぶべきである。自己にとって最も有利なとき、すなわち資源の損耗が最も少ない形で戦うべきであって、不利な戦は避けることが賢明である。

「もって戦うべきともって戦うべからざるとを知る者は勝つ。」(謀攻編)その見極めができる者が勝利者になるのであって、それには、優秀な司令官と、彼を信頼し作戦については彼に全権を委任する政治的リーダーないし国民の存在が重要である。

しかし、国際紛争は相手のあること、こちらが戦争を避けたいと思っても、それが可能であるとは限らない。その場合、つまり戦わざるを得ない場合には、資源の損耗を最少化しなければならない。そのためには、どのような手段を使ってもよいから勝つことをめざす。しかも、早く決着をつけることをめざす。長期に及ぶ戦争は、莫大な量の資源の損耗を招くからである。

「兵とは詭道(きどう)なり。ゆえに能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓(みだ)し、卑にしてこれを驕らせ、佚(いつ)にしてこれを労し、親にしてこれを離す。その無備を攻め、その不意に出ず。これ兵家の勢、先には伝うべからざるなり。」(計編)

少ない資源の投入で勝利するためには、どのような手段でも用いる。戦争は、「騙し合い(詭道)」であり、相手の作戦の裏をかいて、有利に展開することをめざすべきである。相手に敗北の恐怖を感じさせ、戦わずして自軍に有利な形で講和に持ち込むことができれば、それがベストである。それが、前述の「戦わずして勝つ」に外ならない。

では、戦わざるを得ない状況になったときには、どのように裏をかくか、要するに心理戦を展開して相手の戦意をくじくか。それには、自軍を本来の実力以上に強くみせ、相手の士気を殺ぐことはもちろん、裏切り者がいるという偽情報を敵陣に流し攪乱する、捕虜を寛大に扱い降伏を促す、強敵には正面から当たらず手薄なところを探してそこから攻める等々、考えうるあらゆる謀略を検討し実行する。

こうした資源や物資の消費をそれほど伴わない作戦が有効であるが、その効果を確実なものにするためには、当然のことながら、相手、すなわち敵がどのように状況を認識し、敵であるわれわれを認識しているか、そしてどのように攻撃しようとしているか、それらについて敵がもっている情報とそれに基づく敵の思考パターンを分析し把握することが何よりも大切である。

そして、それとともに、否、それ以前に自軍の有している資源量とそれに基づく戦争遂行能力を冷静に把握することが肝要である。「孫子」の中で最も有名なフレーズである「彼を知りて己を知れば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。」(謀攻編)は、まさにそのことを表したことばである。

このように、紛争を解決する場合、国家の存続、資源損耗の最少化をめざして、冷静に作戦を練ることが重要である。だが、何度もいうようだが、戦争は相手があること、敵から仕掛けられることも当然ありうる。その場合にはどうすべきか。「孫子」の思考に従えば、できるだけ少ないコストで戦って負けないようにし、できるだけ早く、戦況が最も有利な時点で戦争を止めることであろう。それには、戦争を開始したときから、停戦ないし講和の方法とタイミングをしっかりと考えておくことが大切である。

しかし、このような都合のよい終結がいつでも可能とは限らない。ときに相手国が戦力において圧倒的に有利であり、その国が理不尽にも一方的に侵略をしてきた場合などのように、戦っても到底勝ち目がない戦を仕掛けられることがないとはいえない。では、そのときはどうすべきか。「孫子」には、そのようなケースの対処法については書いてないが、「孫子」の思考を延長するならば、できるだけ少ない犠牲で「上手に負ける」方法を選択すべきということになるのではないだろうか。

それは敗北主義であり、潔く徹底抗戦すべきであるという主張の方が支持を得るかもしれない。しかし「玉砕の決意」は一種の「美学」ではあっても、国家の存続という至上の価値の最大化に資する現実的な戦略とはいえない。保有する資源の損耗を最少限に抑え、捲土重来を期すことこそが最善の選択肢といえるのではないだろうか。

ロシア、あるいはソ連という、戦っても勝ち目のない隣国の圧力に晒されてきたフィンランドが、なぜ前述したような市民社会の水準を維持するために、体系的で合理的な政策を立て、そのための政府の体制整備を図っているのか。そこには、「孫子」の思考と共通するものがあるように思われる。


市民社会の安全保障③

5. 総合的安全保障政策の必要性に続く。