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EdTech と教育改革(3) 〜 学び方の多様性 〜

〇何のために学ぶのか
かつての教科中心の教育に対して、最近は、子供たちの自発的な学びを重視したアクティブ・ラーニングとか、具体的な課題に取り組んでその解決策を考える中で、多くの知識を学んでいくPBL(Problem Based Learning)といった教育方法が注目され、採用されるようになっています。

こうした教育方法を採用することにより、従来の知識の習得を基本とする認知能力重視の教育から、コミュニケーションや公共性などの生きていくために必要とされる能力である非認知能力を重視する教育へシフトしつつあるといえるでしょう。

このような傾向に対しては、やはり基本的な知識をまずはしっかりと身に付けることこそが重要であるという伝統的な考え方から批判的な意見も聞かれます。たしかに、具体的な課題解決の方法を考えるにも、基礎的な国語や数学等の知識がなければ、的確な解答はみいだせないでしょう。

他方、これまでの教科の知識習得中心の教育では、その知識を何のために学ぶのか、それが現実の社会で何の役に立つのか明確ではないので、なかなか身につかないのではないでしょうか。やはり具体的な目的のために学ぶことによって、初めて知識も身に付くし、応用力も獲得できるという反論も聞かれます。

たしかに、現在の教科の知識習得の目的は明確ではなく、多くの子供たちは、高校や大学の入試のためにそれを勉強しているといっても過言ではない、と思われます。そのため、入学してからそのような知識を使わないと、次第に忘れてしまい、後年必要なときに、それが役に立たないことになるでしょう。

このように教育方法については、大きく異なる意見があるようですが、このような論争は、生産的ではありません。子供たちには、具体的な問題に関心をもたせつつ、それを解決するために必要な科目の体系的な知識を身に付けさせることが大切なのです。

私自身の経験を振り返っても、統計学を単に法則や方程式を覚え理解するだけでは身に付きませんし、そもそも学習すること自体が面白くありませんでした。結果として、途中で断念してしまったのですが、今から思えば、当時もっと具体的な課題を理解し解決するために、それを用いていれば、まさに身に付いた能力となったと思います。

現在、コロナ禍の下で、感染者の変化について関心が高まっていますが、基本的な統計数値の意味や確率の考え方が理解できていればありえないような解説がメディアやSNSで流布しているのをみて、そのように感じます。

要するに、どちらの方法を採用すべきかという選択の問題ではなく、両者を合わせたベストミックスを見出すことが必要なのですが、それには、机上で議論するのではなく、さまざまな方法を試みて、データを収集し、それを科学的に解析し評価すべきでしょう。そして、そうした実験を継続することで改善を図っていくべきです。

そうした観点からも、未来の教室の実証事業で推進してきた、教育用のさまざまなアプリの開発を進めるべきだと思います。そして、しっかりとスタディ・ログを採ることによって、客観的な評価を行い、よいものを残し、改善を重ねていくことが重要です。

今後、状況は大きく変わる可能性があります。まさに、突然、コロナ禍が降りかかり、教室での授業が困難になったように。そのようなときに大切なのは、教室か、オンラインか、その学び方は変わったとしても、何のためにその学問や教科があるのか、なぜそれが役に立つのかを確認できるような教育方法、学習方法であることが必要です。目的意識をもたず、単に知識の習得や理解することを自己目的として学習させても、それで得たものはなかなか身に付かないと思います。

〇校則を見直すべし
このような観点からみて、今、重要な問題提議が行われているのが、とくに中学校や高等学校における校則のあり方の見直しです。

経産省の「未来の教室」プロジェクトの中でも「みんなのルールメイキング」という事業が動いています。校則改革プロジェクトをPBLとして取り組むこの試みを、認定NPO法人カタリバに委託をして進めています。

これは「与えられたルールをただ守る」のではなく、「ルールはどうあるべきかを自分たちで論理的に考え、合意する」という習慣をつける機会を作る試みです。学校同士がネットで繋がり、また外部の会社員や弁護士や行政官や大学教員などの支援者もネットで繋がり、議論を深めて合意に向かうP B Lのネットワークを形成しようとしています。

聞くところによりますと、学校の中には、髪の毛の色は黒でなくてはならない、とか、服装についても、色や形状、長さ等について詳細に規定され、それを守らないと罰せられるとか。

規則はたしかに守るべきであり、定められている規則の内容や規則を守ること自体を学ぶことは重要です。しかし、当然のことですが、規則は何のために存在しているのか、なぜ守らなくてはならないのか。それが理解されないと、自発的に規則を守ろうという気にはならないでしょうし、それを無理に守らせようとしても、そのような教育を受けてきた者は自律的な人格をもった人間には育たないでしょう。

現代の民主主義社会では、個人の自由、制約のない自由な状態が原則です。しかし、考えも利害も異なる人たちが多数共存していかなければならない社会では、お互いに対立や紛争が起きないように一定の規則が必要です。

民主主義社会ですから、そうした規則を作るためには、①なぜ規則によって行動を制限しなければならないのか、その理由、つまり規則を守らせることによって実現しようとする目的、②どのような行動を制限するのか、すなわち規則の内容です。そして③誰がどのような手続で規則を定めるのか、最後に④どのような方法でその規則を守らせるのか、が明らかでなくてはなりません。

現在問題とされている高等学校の校則の場合ですと、たとえば髪の毛の色を特定の色に制限することによって、何が実現できるのか、換言すれば、どのような問題を回避できるのか、よくわかりません。

仮にそれが明らかであったとしても、次に、その目的を達成するために、髪の毛の色を規制することが合理的な方法であるのか。他のもっと自由を制限しない方法では達成できないのか。そして、そもそもその規則を誰が決めたのか。

こうしたことを子供たちに納得させることができなくては、社会において規則がどういうものか、それを守ることがなぜ必要なのか、理解させることはできないでしょう。

さもないと、かつての強制収容所の規則のごとく、無意味な規則に従わせることによって権威主義的な支配服従関係を自覚させることが目的となり、自律的な社会の構成員としての人格を育てることはできないと思います。

では、学校における規則はどのように作るべきなのでしょうか。規則とは、通常、「○○をしなければならない」、「○○をしてはならない」、「もし違反した場合には、○○という罰を与える」という義務を定めているか、あるいは「○○をする権利がある」というごとく、権利を定める形で書かれています。

民主主義の社会では、原則として、人々は自由ですから、それを制約する義務を定める場合には、しっかりとした規則の規定によってそれを定めることが必要です。

したがって、規則を作るときには、まずなぜそのような義務、すなわち自由の制限が必要なのか、提案されているような義務づけによって、何を達成しようとしているのかを明確にして共有することが大切です。

たとえば、廊下を走るとぶつかって危険なので、走ることを禁止するというように。その場合、達成しようとする目的に対して、義務が適切なものであること、また必要以上に行動や自由を制限するものであってはならないことは当然です。

果たして髪の毛の色や服装を規制することが、何のために必要なのか、またそれが効果的な方法なのか。それが理解されないと、規則は守られず、反発も強くなるでしょう。

このような、達成しようとする目的やそのために必要な義務の内容を、規則にしっかりと書き込むことがまず大事ですが、規則を作る場合にもう一つ大事なことは、誰がどのような手続で規則を制定するのかということです。

規則の制定については、賛否さまざまな意見があると思います。皆で話し合って、合意できればベストですが、そうでない場合にも多数の者が支持するならば多数決でそれを決定することが必要です。皆が参加して決めるということ、誰か他のおそらく偉い人が勝手に決めたのではないということを、理解することが重要なのです。

子供たちにこうした経験を積ませ、自ら決定に参加した規則であるがゆえに、それに従わなくてはならないということを習得させること。民主主義国家において自律的な市民を育てるためには、これが重要なのです。

ただし、すべてを子供たちの決定に委ねておいてよいかというとそうではありません。たとえば、子供たちが話し合って、特定の要素をもっている子供、たとえばある地域に住んでいる子は特定のイベントに参加させないという規則を提案し、多数決でそれを決定することは認められるべきではありません。

社会で認められている普遍的な人権はいかなる場合にも侵してはならない原理であり、多数決によっても差別は許されないということは、大人の世代が子供たちにしっかりと教えておかなければならないことです。教員が果たさなければならない役割とは、このような基本的なことがらをしっかりと教えて身に付けさせることだと思います。

校則の話に深入りしてしまいましたが、まだ経験したことのない新たな状況に直面して、そこでの課題を解決する能力を身に付けさせることは、現在の教育において非常に重要です。

教科で教える知識はもちろん大切です。しかし、それを直面する課題解決のために用いることができなくては、学ぶ意味がありません。将来が不透明な現代では、とくに、多様な学び方が試みられるべきです。

教える側の教員も、漫然と既存の知識や存在している規則を覚えさせるという発想を捨て、なぜその規則が作られたのか、その規則は現実にどのように機能しているのか、それを常に考え、説明し理解させることを重視すべきであると思います。