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市民社会の安全保障③

5.総合的安全保障政策の必要性

「孫子」について長々と述べたが、ここではそれから軍事的な危機管理のあり方について示唆を得ようとしたのではない。軍事的な危機も含めた、現代国家が遭遇する可能性のある多様な危機に対処する上での合理的な思考の一例として紹介したものである。

われわれの社会が遭遇するかもしれない危機には多様なものがある。いついかなるときにどのような危機に直面するか予測することは容易ではない。しかし、危機に対して守るべきもの──すなわち、現代社会における市民生活の水準──は、危機が市民社会に必要な要素の欠落を招くという観点からは、危機のあり方によって基本的に異なるものではない。

したがって、起こりうる危機のタイプを想定してそれに備えることが必要だが、未知の危機をも考慮して、市民社会の安全を守るための総合的な安全保障政策を検討し、策定しておくことが重要であろう。その策定に当たっては、広く国民の参加を求めることが必要であるし、何よりも策定された政策が国民の間で共有されなければならない。

このような政策の検討は、政府各部門はもちろん、民間部門も参加して行うべきであるが、最も基本的な要素として、次のような事項を考慮することが必要と考える。

第1に、発生する可能性のあるリスクについての認識とその的確な評価を行うことである。

これまでのわが国の危機への対応の問題点は、自然災害にしても、原子力発電所の事故のような人災にしても、また軍事基地での事故についても、あるいは薬害についても、リスクの評価を極めて厳密に行い、「リスクゼロ」、「犠牲ゼロ」を達成すべき基準として想定してきた。しかし、現実にそのような状態を常に実現できるとは限らない。副作用ゼロのワクチンを作ることは極めて難しいし、いかに強固な堤防を作ったとしても、それを上回る津波が発生しうることは、東日本大震災で体験したところである。

だが、わが国では、これまで犠牲の発生するような事態を想定からはずし、まさに「想定外」として対応策を講じてこなかった結果、副作用の発生を抑止できない予防接種を任意化したり、全員が必ず助かる被災者ゼロの避難計画を策定したり、また個人情報が少しでも漏洩する危険があることを理由として国民番号制度の導入をしないなど、おかしな対応を行ってきた。そして、実際にそれが達成できず、少しでも被害者が出ると、行政当局の責任が追及されてきた。

本来あるべきリスクへの対応は、事前に起こるかもしれないリスクを想定し、その発生と被害をできるだけ抑制する行為である「リスク管理」と、一度事態が発生した場合に、想定の如何に関わらず、被害者を救済し、被害を最少化する行為である「危機管理」を峻別し、それぞれについて、犠牲“ゼロ”ではなく、犠牲“最少化”の観点からしっかりとした対策を作り、実際の事態発生時にその対応策に従って全員が行動できるようにしておくことである。

東日本大震災後、犠牲の最少化を踏まえた「減災」という発想がみられるようになったが、それに基づいた政策の具体化を早急に進めるべきであろう。

第2には、危機発生時に守るべき価値の優先順位を明確にし、それに従って合理的で体系的、効率的な対応策を策定することである。

危機において守るべき最も重要な価値が人命であることはいうまでもない。そのこと自体は否定できないが、それでは想定される被害者全員の生命を救済できないとき、どのような人たちの命を優先し、どのような人たちの救済を後回しにするのか。

野戦病院において、限られた医療資源の最も有効な使用方法として、負傷した兵士への治療の優先順位を定めたのが、そもそもの「トリアージ」の考え方である。そうしたケースは、何も戦時に限らず、危険な感染症が流行したにもかかわらず、必要なワクチンの量が足りないときには容易に生じうる問題である。

この人間の生命も、負傷や病気のときに限らず、たとえ健康であっても、冬期、寒冷地帯では暖房や物資輸送のためのエネルギーの供給に依存している。エネルギーの供給が途絶えると、それはその地域に住む人たちの生命に直ちに影響する。人々の生活はもとより、生命自体がそうしたエネルギーの供給網に依存しているのである。

多くの国では、主要なエネルギー源は石油であり、その石油は他国からの輸入に依存している。輸入が途絶した場合に備えて備蓄が行われているが、原油は精製してはじめてガソリンとなり、ガソリンとなってはじめて自動車を動かすことができる。そして、自動車が走る道路が通行可能であって、はじめて必要なところに必要な物資を運搬することができる。備蓄、製油所、道路網のいずれが欠けても、救済は困難になる。

先にみたフィンランドの市民社会の安全保障政策は、こうした考慮から、エネルギーが社会のさまざまな要素が依存する最も基本的な要素であり、緊急時のそれを確保することを優先的な任務と位置付けている。

第3に、こうした対応策を実現するために、政府内の調整はもとより外交も含めた体制整備を進めることである。

総合的政策に従って、実際に対応活動を行うためには、いくつもの政府機関や民間組織が一体として行動することが必要である。わが国は、国の行政組織間のタテワリ構造が強く、また地方の自律性も高い。平時はそれでもよいが、緊急時には、一元的指揮の下にそれらが連携し、タテワリの境界を越えて一体的に行動することが必要である。

しばしば指摘されているように、そうした一元化には、制度的に強力な権限をもった司令塔ともいうべき機関が置かれなくてはならない。緊急時にそのような機関を設置することに加えて、そうした一体化が円滑に行われるように、日常的に関係機関間の調整を図り、緊急時に備えることが大切である。前述したフィンランドの国家緊急供給局の組織が参考になろう。

さらに加えて、多くの物資を海外からの輸入に依存しているわが国の場合、緊急時の輸入量の確実な確保を図るために、日常的に外国との緊密な協力関係を形成しておくことも忘れてはならない。

東日本大震災のときの経験であるが、緊急に海外から支援を受けた物資の品質がわが国の品質基準を満たしておらず、支援を受け容れるのに手間取ったケースがみられた。こうした規制や種々の基準の扱いも、緊急時に対応できるように、平時から備えておくことが必要である。

第4に、危機発生の可能性について、冷静に現実の社会の状況を観測するとともに、事態発生時の対応能力の限界について的確に認識することである。

危機はいつ発生するかわからない。台風や洪水のように、ある程度事前予測が可能な危機もあるが、地震やサイバーテロのように、突発的に起こる危機もある。そうした危機が現実に発生する可能性があるとき、その確率がどれくらいあるのか、どのような被害が想定されるのか、それらについてのできるだけ詳細で正確なデータを日常的に収集利用できる体制を作り上げておくことが重要である。

地震の予知は困難としても、降水量と水害の関係、サイバー攻撃に対するシステムの脆弱性、感染症の流行の危険性等はある程度の予測は可能であろう。少なくとも気象や地形に関することは地理的なデータベースを、国民に関する事項については、属性や居所、健康状態などについては国民番号制度を活用した状態把握の仕組を早急に整備すべきである。

それとともに、災害や事故等が発生した場合に、その被害の最少化、救援のために利用しうる資源──人的資源、物資、輸送手段、そしてそれらに関する情報──を、常時把握しておくことが肝要である。一度、緊急事態が発生したときには、必要なところへ必要な物資をできるだけ早く供給することが重要であり、そのための一元的な情報の管理と的確な指示を出せるシステムの構築をめざすべきである。

第5に、以上に述べてきたような総合的な市民社会の安全保障のあり方について、課題を国民に提示し、国民の議論を反映して対策を策定し、危機管理についての認識の共有を図るべきである。

これまで述べてきたように、ここでの社会生活の安全保障の考え方は、それにダメージを与えるさまざまな脅威を想定して、ダメージを最少化し、早期の復旧を図ることをめざしている。社会生活へのダメージが生じた場合、当然、国民は不安になり、またそれまでの生活が維持できなくなることから不満も高じる。

とくに、対応力の限界から一定の犠牲を強いられるとき、そうした不満は一層高まる。そのため、今次の原発事故でもみられたことだが、政府はパニックの発生を恐れ、情報を隠蔽する、それがさらに不安を煽り、ますます混乱を招く・・・。こうした事態を避けるためには、脅威が現実化したとき、何が不足し、どのような生活に障害が生じるのかを予め国民に周知し、それを受け容れる心構えを平時から形成しておくことが必要である。

そして、実際に危機状態になったときには、できるだけ現状がどのような状態にあるかを、国民各自の置かれている状況に応じて周知し、共有されている対応策に従って、各自が適切に行動するように促すことが望ましい。仮に必要な食糧や薬品の配付が行われなくても、それが総合的な対応策に基づいて、より優先される人たちに先に配付されていることを知れば、多くの人たちは納得するであろう。

そうした社会を作り上げるには、ここで述べているような市民社会の安全保障の政策を、科学的な根拠に基づき、多くの国民参加の下に策定するとともに、できるだけ多くの機会を使って国民に周知することが大切である。それに関しては、政府の広報もさることながら、マスメディアの役割と責任は非常に大きい。

以上、わが国における市民社会の安全・安心を守るために総合的な安全保障政策が必要なことを述べてきたが、冒頭にも述べたように、今わが国は、いくつものこれまでになかった危機に直面している。そのような状況下で、ただ不安に怯えるのではなく、また根拠もなく強がって自分自身を安心させるのでもなく、起こりうる可能性のあることを冷静に予測し、市民社会の現状を最大限守るべく、そのために何が可能なのか、ダメージを最少化するためには何をすべきなのか、それらを合理的な思考によって考えるべきときであると思う。そして、そのために、歴史や他国の経験から学び、何よりもわれわれの危機に対する意識を改革すべきであると考える。