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恋のペネトレート -Tom & Diane-
この物語は、とあるバスケットボールチームの中年ヘッドコーチの物語。
ストイックな指導で知られる彼は、勝負にこだわるあまり選手やフロントとたびたび衝突し、幾度となくコーチの座を追われた歴史がある。
ある時、大都市にありながら望まれた結果を出せないチームからヘッドコーチ就任の声がかかる。
その年チームは彼が浸透させたディフェンスの意識と、若きエースの覚醒により大躍進を遂げる。
優勝こそ叶わなかったが、翌年こそは、という期待を皆が抱けるようなシーズンだった。
そして大きな期待とともに始まったシーズンは、周囲の期待を裏切る結果となった。
昨シーズンの課題と言われたオフェンスを新戦力で補ったはずが、アイデンティティだったディフェンスが崩壊。
キングと呼ばれるようになったエースは、勝てない現状にフラストレーションを溜め悪態が顔を出すようになる。
有望な若手が芽を出しかけたが、勝利にこだわるヘッドコーチはベテラン中心の起用を続けた。
「また負け癖が戻ってきたのか。」
街ではチームに、エースに、そしてヘッドコーチに、辛辣な声があがるようになった。
失意のなかでオフシーズンを迎えることになったが、ここでひとつの明るいニュースが飛び込んでくる。
この街で生まれ育ち、昨シーズン大きな成長を見せた左利きの司令塔がチームに移籍してくることが決まったのだ。
長い長い暗黒時代を経てファンに刻み込まれてしまった、多少のことではチームには期待しない雰囲気のなかに、わずかな希望が漂い始めた。
ある時、ミーティングを終えたヘッドコーチはアシスタントコーチとともに食事に行くことになった。
食事にはこだわりはなく、場所はどこでもよかったが、アシスタントコーチのひとりに誘われるがままに少し遠くの店まで足を運ぶことに。
ニューヨーク州ウェストチェスター郡ホワイト・プレーンズのはずれにある「Diner Diana」
妖艶な女性オーナーが経営する、ちょっと古いがコアなファンの多い店、だそうだ。
その日の練習の課題を酒の肴に、アシスタントコーチ達のグラスはどんどん空いていく。
いい試合、いい練習ができなった日は深酒しないと決めている彼は、終始不機嫌な表情で黙々と食事を平らげた。
途中で出てきたパンプキンパイが、どこか懐かしい味がするなと思った以外は、この日特に記憶に残ることもなく、酔っ払ったアシスタントコーチを引っ張りながら彼は店を後にした。
彼は普段からジムのアナリティクス室でVHSのタワーに囲まれながら寝るような生活を送っていた。
今年のオフは特に、新しい司令塔をチームにフィットさせるためコーチングに没頭した。
あのダイナーに行ったことさえ忘れてしまうほど、自らの生活をバスケットボールで埋める生活だった。
ある日、最後に髭を剃ったのがいつかわからなくなるほどの時間をジムで過ごした彼は、毎日の食事も味気ないUber Eatsばかりで、久しぶりにまともな食事を摂りたくなった。
「どこにいこうか。」
外食のチョイスはいつもアシスタントコーチに任せていたせいで、ひとりで食べに行ける店を彼は知らなかった。
ジムを出て、あてもなく歩いていると、大きなかぼちゃのぬいぐるみを抱えた小学生ぐらいの女の子が、通りの向こうを歩いているのが目に入った。
ハロウィンの準備にしてはやけに早いな、と彼は思った。
その時ふと、あのパンプキンパイの味が舌に蘇り、急にあの味が食べたくなった。
「いらっしゃませー!」
威勢のいい声で、眼鏡をかけたアルバイトの男に出迎えられた。
ディナーにはまだ早く、店は空いていたが、彼はカウンターの端に座った。
その日のお勧めメニューとパンプキンパイを注文した彼は、いつものようにひとりで黙々と食事を進めた。
カウンターにオーナーが現れ、彼女の顔を見て、ああこんな人だったっけ、と彼は思った。
目があった彼女は微笑みで返し、彼は少し恥ずかしくなった。
恥ずかしい?
彼は自分の感情に困惑したが、それが照れだったことに、その時は気がつかなかった。
「仕事でよくこのあたり来るんですか?」
オーナーと客で交わされる、うすい会話、のはずだった。
「ああ。」
別に愛想良くしても良かったが、なぜか咄嗟にぶっきらぼうな態度が出てしまった。
それ以上彼女は詮索してこなかったが、カウンターの向こうで穏やかな笑みを湛え、はつらつと働いていた。
キッチンに戻った彼女に、アルバイトの男が声をかける。
「あの人、シボドーだよ、姐さん。」
「シボドー?誰?」
キッチンはカウンターから程近く、会話の声は彼の元まで届いていた。
アルバイトの男が彼女に自分の素性を説明しているのも聞こえていたが、彼は特に気に留めなかった。
食事を終え店を出ようとした時 、
「大変みたいね。」
彼女は彼に労いの言葉をかけた。
彼は不意を突かれたような表情を浮かべ、結局何も言わずに店を後にした。
店を出た彼は、さっき声をかけられた時のことに思いを馳せ、ああ、こんな綺麗な人だったのか、と見惚れていたことに気がつき、ひどく困惑した。
それから彼は、週に1回はそのダイナーへ足を運ぶようになった。
あくまで食事のため、他を探すのが面倒だから、
少し離れたダイナーにわざわざ向かう理由を、自分で自分に言い聞かせるようになったことに彼は気づいていなかった。
そのうち週に2回になり、朝食も食べに行くようになり、無言で食事を摂ることは変わらなかったが、いつからか店に行く前にはちゃんと髭を剃るようになった。
おしゃべり好きなアルバイトが聞いてもいないのにいろいろ話すのを聞き流しているうちに、彼はこのダイナーに関することをいろいろ知ることになる。
オーナーにはバスケに熱狂的な甥っ子がいて、彼のチームを応援するYoutubeチャンネルをやっていること。
アルバイトはミネソタのファンで、そのチャンネルのリスナーであること。
オーナーがバツイチであること。
そして、別れた男性から最近復縁を迫られていること。
「迷惑してるのよね。」
笑いながら彼女は言った。
本気なのか冗談なのか、歴戦の将である彼でも真意を読めない表情を、彼女はよく浮かべていた。
「あんたはJennyを大事にしなさいよ。」
どうやらミネソタ君にはパートナーがいるらしく、少し照れた表情で頷いていた。
彼は結婚したことはなかったが、結婚を視野に入れた女性がいた。
しかしバスケットボールに私生活を注ぎ込むあまり、お互いの思いやりに棘が生まれ、結局挙式予定の1ヶ月半前に破局したのだった。
それ以来、女っ気のない生活を送ってきたが、自分はそれでいいと思っていた。
「Tomさん、モテそうなのに、バスケットのことばっかりだもんね。」
いつものようにいたずらっぽく彼女は微笑んでいたが、彼は下を向いたまま何も答えなかった。
この時彼は、嬉しいようなもどかしいような、言語化できない感情を自分が抱えていることに初めて気がついたのだった。
オフシーズンの練習が続き、ある時彼はいつも通りフィルム室に泊まり込んだ。
ほぼ徹夜した彼は、昨日の昼から何も食べていないことに気がつき、いつものようにダイナーで朝食を食べることにした。
店に入っても、いつものミネソタ君のお出迎えがなく、ちょっと拍子が抜けたように感じた。
「あら、いらっしゃい。」
少し低いトーンで、彼女がキッチンから現れた。
「今日はJennyとデートなんだって。一人だと仕込みが大変で。」
それ以上、余計な会話がないのはいつものことだったが、今日は彼女が少し沈んでいるような、そんな気がした。
「髭、今日は延びてるのね。」
「フィルムだよ、フィルム見てたんだ。」
しばらくの沈黙
「あたし好きよ、・・・。」
「えっ」
また沈黙
語尾がよく聞き取れなかったが、彼の心拍数は一気に上がった。
いつも先のことを想定して対応を準備する彼だったが、想定外の事態は不得意という弱点があった。
咄嗟に、本当に咄嗟に出た言葉は、自分でも驚くほど自分の本心だった。
「ああ、私もだよ。」
また沈黙
その後、彼女は、今日の雰囲気とは真逆の、少女のような満面の笑顔を見せ、声をあげて笑った。
聞き取れなかった語尾が「その髭」だったことを理解した彼は、自分の勘違いに気がつき、マイアミの炎のように耳と顔を赤くした 。
「ありがとう。嬉しいわ。」
これ以上、この日は会話はなかったが、店を出る時には彼女の憂いを帯びた表情はどこかへ消えていた。
それからも彼がダイナーへ通う頻度は変わらなかった。
彼は、彼女の気持ちを知りたいとは思ったが、聞くのが少し怖かったためか無言を貫いた。
カウンターの端の、いつもの席でいつものメニューを注文する。
いい練習ができた日は少しだけ上機嫌に、そうでなかった時もパンプキンパイを食べる時だけは少しだけにこやかに、これが店の日常の一部になっていった。
不思議なことに、この頃から彼の周囲に少しずつ変化が起こり始めた。
チームのカルチャーが熟成してきたような、個々が覇気に満ちてるような、そんな気がしたが、彼にはその理由が分からなかった。
移籍してきた司令塔がうまくチームにフィットし始めたからのか。
キングが心身を鍛えあげ、リーダーシップを取り戻してきたからなのか。
若い力が芽吹き始めたからなのか。
練習後にアシスタントコーチ達が少し浮き足立ったように、その原因を考察していが、結局誰も分からなかった 。
「変わったのはヘッドコーチの方じゃないですか。」
若い小柄なガードの選手が、笑いながら言った。
「だって去年はこんなに教えてもらえなかったですもん。話しかけるのも怖かったし。もしかして」
「コーチ何かいいことでもあったんですかね。」
若いガードは靴紐をほどきながらそう言ったが、顔をあげるとそこにはもう彼の姿はなく、フィルム室の扉が閉まる音だけがジムに響いた。
ダイナーでは、彼のチームの過去の試合の映像が流れるようになった。
客が少ない時間帯は、自称アナリストのミネソタ君による解説が始まることが日常茶飯事だった。
一度、甥っ子のYoutubeチャンネルも流れたが、ただ男性二人が喋ってるだけ動画だったので、これなら試合観てた方がいいわ、と彼女は思った。
甥っ子はTwitterで選手を全員フォローしているらしく、時々電話してきては関西弁混じりの英語でいろんなエピソードを教えてくれた。
彼女は試合を全部観るようなタイプではなかったが、彼とミネソタ君と甥っ子のおかげで少しずつチームのメンバーに詳しくなっていった。
不甲斐ないシーズンを送り、再起をかけてハードなトレーニングに勤しんでいるニューヨークのキング
期待を一身に背負って移籍してきた、静かな闘志と安定したスコアリングが売りの司令塔
ドラフト1巡目、年々成長が目覚ましい左利きの若大将
まるで角ばったiPhoneのように上半身を鍛え上げたチームの守護神
それ以外にも、フランスの貴公子やスラムダンクコンテストの王者、薔薇のベテラン、神の子、ニキビの残る幼い笑顔がチャーミングな若手ガード
知れば知るほど、魅力的なメンバーだな、と彼女は思うようになった。
特に彼女のお気に入りは背番号1番の選手
ダンクシュートがよくハイライトされたが、彼女はそれよりも、点を取られた後の素早いリスタートや、苦手なりにディフェンスを頑張る姿を、一生懸命でかわいいなと思っていた。
ただ昨年の映像では、ベンチに座っている時間が多く、何で試合に出さないんだろう、と彼に対して不満を抱くほどだった。
そうだ、今年は、この1番をたくさん使った方が勝てるんじゃないかしら。
今度彼がきたら言ってみようかな、と彼女は思った。
そのうち、彼がダイナーの常連になっていることはチームのなかで広まっていった。
しかしあくまで厳格なイメージのある彼だったので、オーナーとの関係の進捗を尋ねられる者は誰もいなかった。
最初に彼にダイナーを勧めたアシスタントコーチは、その後も数回店に足を運んでいた。
ただ、娘が生まれてからは、家族との時間のため食べに行く回数が減っていったがアルバイトの男性とはやけに気が合い、年が近かったこともあってたまに飲みに行くような友人となった。
ミネソタ君、と呼ばれていることは、少し酔っ払った時に彼が教えてくれた。
ある時、気分屋で知られるチームのオーナーに呼び出された彼は、昨年の成績をひどく叱責された。
言い返したいことは山ほどあったが、結果が全てのこの世界ではすべてが言い訳になることも、彼はわかっていた。
フラストレーションをアルコールにぶつけることだけは、普段からしないようにしていたが、この日ばかりは自宅でウィスキーを開け、試合の映像を観ながらいつも間にかソファーで眠ってしまっていた。
翌朝、寝方が悪かったのか、二日酔いなのか、コンディションは最悪だった。
とにかく練習前に何か胃に入れないと、と彼は思った。
いつものダイナーにやってきたが、ドアには真っ白なプレートがかかっていた 。
「いつでもみんなに来てもらいたいから、OpenはあってもCloseは掲げたくないのよね。」
いつだったか、彼女が言っていたことを思い出し、真っ白なプレートを不思議に思った。
プレートを裏返すとそこにはOpenの文字があったが、ダイナーは明らかに人気がなく、違和感を感じつつも彼はそのままジムへ向かった。
この日は、練習前のミーティングが少し長引いた。
選手がどこか上の空な表情で、気が抜けているのかと思い一喝したことも、ミーティングが長引いた一因だった。
何となく晴れない雰囲気のなか、彼はミーティングの終わりを告げた。
「さぁ、練習だ。」
彼は少し苛立ちながら言った。
少しの沈黙の後
「コーチ、差し出がましいようですが」
アシスタントコーチが口を開いた。
「あの、友人から聞いたんですが、コーチのいきつけのお店のオーナーがケガされたみたいで」
「どうやら別れた男性が、ヨリを戻すように迫ってたらしいんですが、昨日の夜に酔ってまた店に来たらしくて」
「ちょうど僕の友人も店にいなくて、いつものようにオーナーが断ったら、店で暴れたみたいで」
「他のお客さんがポリスを呼んでくれて、事は収まったんですが、その、あの、頭を打ったみたいで」
「顔にもけっこうキズが」
「それがどうした。」
遮るように彼は言った。
「チームには関係のない話だ。」
声には少しだけ動揺の色が浮かんでいた。
「でも」
「さぁ練習だ。」
これ以上、その場にいた誰も何も言わなかった。
停滞した空気を振り切るように、彼は勢いをつけてロッカールームを後にした。
選手は最初誰も動かなかったが、キングが立ち上がったことを皮切りに皆重い足取りでコートへ向かい始めた。
アナリティクスの資料を取りに行っていた彼は、少し遅れてコートにあるフロアへ到着したが、コートの入り口で、選手が人だかりを作っていた。
「どうしたんだ、練習だぞ。早くコートに入るんだ。」
選手達が振り返り、その輪の中から、キングが一歩前に出てこう言った。
「ドアがね、開かないんですよ。」
「そんなはずないだろ、今日はこれからスクリメージの予定だぞ。」
体格の良い選手達がドアの前に集まっていたせいで、彼からはドアノブは見えなかった。
「IQ、おまえカギのある場所知ってるだろ、取ってきてくれ。」
「カギ、なかったんですよね。」
彼がすべてを言い終わる前に、かぶせるように神の子は言った。
「なんだよ!誰だよ、こんなイタズラしたのは!」
彼は久しぶりに赤鬼のような形相を浮かべ、床を蹴った。
「コーチ」
薔薇のタトゥーの入った選手が、彼の前に歩み寄った。
「コーチはいつも、俺たちにバスケを、特にディフェンスの大切さを教えてくれた。」
なんだよこんな時に、と彼は思った。
「守ることが大事なのは、人生でも同じだ。オレはそれもあんたから教わったんだ。」
「あのケガを負った後、オレは自分の存在意義を、居場所を守ることに必死だった。心が折れそうになったけど、あんたの教えのおかげでやり抜くことができたんだ。」
「コーチ、今のあんたには守るもの、あの時のオレと同じように守るものがあるんだろ。」
この時、彼はようやく、ドアの鍵が本当は閉まっていないことに気がついた。
「守るべきものが、その人が今、泣いてるかも知れないんだろ」
「行けよコーチ」
「いや、でも。」
「コーチ、あんたまだその人、口説いてないんだってな。」
キングがニヤリとした表情を浮かべながら言った。
「フラれるのが怖えのか?」
彼は答えなかった。
「そこは守ってばっかじゃ勝てないぜ。」
そう言うとキングは、彼の両肩を真っ直ぐに、しかし優しく押した。
ジムの前にはもうすでにUberが一台停まっていた。
病院のアドレスが書かれたメモをドライバーに渡し、車は勢いよく発車した。
くそったれ、全部お見通しかよ。
彼は呟いたが、そこにいたメンバーはとても晴れやかな表情で彼を見送った。
目的地についたドライバーに、少し多くの紙幣を渡して車を降りた彼は、受付に向かった。
氏名やワクチン接種歴などを書かせるドキュメントが渡され、気が急いているせいか彼は少し苛立った。
患者との関係性、という欄に何と書こうか悩んだが、悩んている間に回収されてしまった。
ああしまった、これじゃ入れないかも知れない、と彼は焦った。
が、数分後に受付に呼ばれ、病棟と部屋番号が告げられ、IDカードが渡された。
少し不思議に思いながらエレベーターに乗り、IDカードを首にかけた彼は指定された病室へ向かった。
ドアをノックすると、衣擦れの音とともに彼女の返事が聞こえた。
彼はそのまま入っていいのか少し迷ったが、おそるおそるドアを開けた。
「絶対Tomさんだと思った。」
淡いブルーのカーディガンを羽織った彼女はそう言った。
顔に巻かれた包帯の間から、彼女の目がこちらを向いているのが見えた。
目が合った彼は咄嗟に視線を外し、病室のオレンジのカーテンを見た。
「本当はご家族以外面会ダメなんですよ、って言われたんけど」
「ほら、Tomさん有名人じゃない。きっとナースもTomさんを見たかったじゃないかしらね。」
少し間を開けて
「こんな顔だから、本当は、会いたくなかったんだけど。」
と言いながら、彼女は視線を伏せた 。
「でも大丈夫みたい。骨や頭には異常はないみたいで」
「今日はどうしたの?練習は?」
部屋に入ってからまだ何も言わない彼に、むしろ何も言わせないかのように彼女は話し続けた。
彼は何も言わず、彼女の話を聞いていた。
「いつもミネソタ君が追い払ってくれるんだけど、ほら彼、体格いいじゃない。」
「この間なんて、期待のドラフト2位選手と同じ体重なんですよって。笑っちゃったわ。」
ここでふと、彼女の話が途切れた。
「あの男がね、私が一人でいるのは、自分とやり直したいからだろって。」
「あんなポッキーみたいに細い男、全然もう眼中にないのに。」
彼女とカーテンを行ったり来たりしていた彼の目線が、彼女の目元に停まった。
・・・涙?
彼はその意味が分からず、そのまま沈黙を続けたが、そこから彼女は話さなかった。
まるで彼からの言葉を待っているかのように。
長い沈黙のなかで、彼はキングに送られた言葉を反芻した。
頭のなかでくそったれ、とつぶやいた後、ようやく口を開いた。
「昨日店に行かなかったことを、とても後悔してる。」
「君を、守れなかった。すまない。」
数秒経って、ぷっと彼女が吹き出した。
彼が視線を上げると、彼女は口に手を当て、笑いながらこう言った。
「何よそれ、死んだわけじゃあるまいし。」
「でも」
「でも?」
彼女の表情は、いつもの悪戯っぽい笑顔に変わっていた。
「あ、いや・・・」
彼女は何かを待つように視線を窓の外へ泳がせたが、すこし経ってからふぅっと息を吐いた。
「コーチ、ミスした後はどうするんでしたっけ?」
「え?」
「ミスの後、どうしろっていつも選手に言ってるんだっけ?」
彼女の言葉の意味が理解できず、あっけに取られたような表情のまま数秒間が経過した。
「どうするんだっけ?」
「早く戻ってディフェンスで取り返せ、と」
脊髄反射で、コーチとしてのいつもの言葉が口を突いて出てきた。
「で?このミスはどうするの?」
やっと意味を理解した彼が、今度はふぅっと息を吐いた。
「君を、守りたいんだ。これからの君を。」
彼女と視線が合ったが、今度は外さなかった。
「それってプロポーズなの?」
彼女も視線を外さず、そして彼は無言で頷いた。
不意に窓から風が吹き込んだ。
オレンジのカーテンが舞い、ブルーのカーディガンが少し揺れた。
「チャンピオンに、なってよね。」
彼はまた頷いた。
彼女は立ち上がり、彼の元へ歩み寄った。
「今日も髭、剃ってないのね」
「好きよ、Tom」
彼女は彼の無精髭を撫でながらそう言った。
[第1部 fin.]
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