不幸は自分で選択している −「本気で変わりたい」と思った瞬間から人は変われる。
先日、壮絶な過去を持ち、それによって人生に深い闇を持った人に出会った。
その人は語っても語りきれないくらいくらい複雑な過去を持っているようで、次から次へと壮絶な体験をわたしに語り続けた。
その出来事のせいでわたしはとても辛いのだ、人生にたくさんの影響が出たのだ、そして今とても苦しくて仕方ないのだ、と。
もう、こちらまでどんよりしてくるような調子で語り続けた。
…
わたしの親友も、本が書けるんじゃないかと思うくらい壮絶な体験をしている。わたしには想像もつかない苦しみや、殺されかける経験もしている。
けれどものすごく明るい。誰よりも明るい。それは無理した明るさではなく地から出るもので、いま彼女は、大切な家族に囲まれて毎日を楽しんで生きている。
…
このふたりの違いは一体なんなんだろう。
いつまでも過去の苦しみに縛られている人と、それを手放し、楽しく生きている人。どうしてこんなにも違うんだろう。
不幸な彼のことを親友に話すと、「きっと彼はまだ乗り越えていないんだね」と言った。その通りだと思う。
そしてきっと彼は、乗り越えたくないのだと思う。
思うのだけど、人は不幸になりたくないと思いながらも、不幸を背負うことをどこかで楽しんでいたりする。
こんな不幸な自分はかわいそう、こんなに壮絶な過去を持っている自分はかわいそう。そんな「不幸な自分」に、メリットを感じているのだ。
「こんな思いをしてきたんだから、こんなかわいそうなわたしだから同情されて当然」と、他人に優しくされるための武器として不幸を振りかざす。
「こんな状況からは抜け出したい」「幸せになりたい」と言いながらも、どこそのぬるま湯の不幸を楽しむ。そんな部分が、人間にはあるんじゃないかと思う。
親友は、「ずっと苦しかったけれど、それを抜け出せたのはDVの彼氏のおかげだった」と言う。
ぬるま湯の不幸の中、ひどいDVの彼氏と出会った。すべてを管理され、着たいも服を着ることも、行きたいところへ行くこともできず、自分らしいことが何もできなかった。
ここから抜け出したい。自分らしく生きたい。
本気でそう思えたから、積み重なる不幸から抜け出すことができたのだそう。
そんな彼女は、明るく「どん底ってのも悪いもんじゃない」と言った。
…
人は、「本気で変わりたい」「本気でこの状況から抜け出したい」と思ったら、ちゃんと抜け出せる。
抜け出せないということは、抜け出したくないのだ。不幸の中にいることに、メリットを見出しているのだ。
不幸な彼はきっと、どこかで不幸な自分を楽しんでいる。
…
人は不幸を自分で選択している。
だから、「もう不幸を選択するのはやめよう」と決めた瞬間から、人は不幸から抜け出すことができる。
とてもシンプルだ。
自分で選択できるのだから、幸せに生きるか不幸に生きるかは自分次第。
わたしは、どうせなら幸せに生きたい。
だから幸せを選択しようと思う。
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