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自己紹介① 楽しさよりも寂しさが強く思い出される幼少期

僕は、保育園に通っていた時の思い出がほとんどない。もちろん、全くないというわけではなく、担任の先生だった竹田先生やお遊戯やお昼寝の時間などの思い出もある。しかし、それらの思い出よりも強く思い出されるのは、家に僕ひとり、布団で寝ている光景ばかりなんだ。

僕は幼少期の頃、とても身体が弱かった。年がら年中、風邪をひき、熱を出している。だから、保育園に行きたくても行けなかったのだ。その頃、僕の家族は、賃貸マンションの3階に住んでいて、両親は共働きで家にいない状態。母親が自宅から徒歩1分の場所で美容院を経営していたので、何かあればすぐに駆け付けてくれる距離には母親がいた。お昼時間や美容院が少し暇になってくると、僕の病状を確認しに自宅に戻ってきてくれてはいたのだけど、基本的にはいつも僕ひとり布団で寝ている。そんな状態だった。

ある時、僕はかかりつけの病院に母親に連れていかれた。僕があまりにも風邪をひきやすい状態だったため、その原因を調べるために検査をすることになったんだ。もう顔なじみになったおじいちゃん先生。いつもは喉の様子と補聴器で体の状態をチェック。しかし、その時はいつもとちょっと違う。血液検査ということで、注射器で血液を採ることになった。しかし、僕の身体はまだ小さいからなのか、なかなかうまく血液が採取できない。おじいちゃん先生は、何度も何度も僕の身体に注射器をさし、血液を採ろうとする。僕は、注射器の痛さはへっちゃらだったので何ともなかったのだけど、ふと母親を見ると、涙を流して泣いている。何度も注射器をさされている僕が、かわいそうだと感じたのか、母親は涙を落していた。その時の母親の悲しそうな顔が40年以上たった今でも忘れられない。そんな悲しい顔をした母親を見て、僕は凄く寂しい気持ちになったんだ。

寂しい。幼少期の思い出を一言で表すなら、これが最適だろう。病気になっても一人でいなければいけない寂しさ。子どもながらに両親の仕事は理解して我慢していた。だけど、やっぱり寂しかった。健康であればまだ、友達と遊んだりして、多少の寂しさは紛れたかもしれない。しかし、僕はいつもひとりだった。

当時、僕の住むマンションのお向かいに小学校があった。家で寝ていると、休憩時間に生徒たちが校庭で遊んでいる声が聞こえてきた。それが羨ましかった。僕も友達と遊びたかった。だけど、僕は家で病気を治さなきゃいけない。それは分かってる。でも気になる。僕は、ベランダから小学校の様子をよく眺めてた。外に行きたい。遊びたい。でも……できない。

病気がちだったとはいえ、もちろん元気な時もあって、その時には保育園に行ったり、近くの公園で遊んだりしてた。友達もいた。特に仲が良かったのは、喫茶店のナオキ君とおもちゃ屋のこうちゃん。いつ仲良くなったのかは覚えてないけど、よく遊んで、お誕生日会に行ったりしてた。でも、そんなに遊べなかった気がする。仲良しだったのは覚えているのだけど、何して遊んだのかが思い出せない。きっと遊ぶ機会は、そんなになかったんだと思う。

僕が家に1人でいるときは、パズルやプラモデルを作って遊んでた。これがとても楽しくて、夢中になることができた。これらで遊んでいるときは、ひとりでいることの寂しさなんかもすっかり忘れて、没頭していられた。パズルは完成したものを壊してはつくり、壊してはつくりを一日に何度も時間を忘れてやっていた。とても楽しかった。でも、完成したときにふと我に返り、自分がひとりで完成の喜びを共有できるいないことに気づく。結局、楽しかった時間も寂しさを感じて終わった。

僕の幼少期の思い出は、本当に寂しさの思い出ばかりだ。もちろん楽しいこと、嬉しいことも沢山あった。あの頃を思い出すたびに、どれだけ僕が両親に愛されて育ってきたのかを思い出すことができる。両親が共働きだったのも、オイルショックによって父親の会社の経営が苦しくなり、借金を返し、僕に苦労をかけないためにやっていたことだ。でもそれは、この年になってようやく腑に落ちたことであって、幼少期の僕は、お金のことは全然分からないから、そんな事情は理解することができない。ただただ、苦しい時にそばに両親がいないことに寂しさを感じていた。そして、その背景には、お金の存在もあって、このころの寂しさの感情や、そこに絡むお金の観念みたいなことがのちの人生を大きく左右することになった。

それについては、また書きたいと思う。


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