綾瀬安田さん座り_5_

綾瀬はるか 「戦争」を聞く シベリア抑留者たちの記憶


1945年8月15日、戦争は終わりました。
でも、そこから始まった
『地獄』があったのです。

寒さ重労働。そして、飢え
極限のシベリア
そこで人は、どう生き延びたのでしょうか。




京都・舞鶴。

この日、大学生たちは、
熱心に耳を傾けていました。
想像を絶する、その話に・・・。


安田重晴さん。98歳。
語ったのは、シベリアでの抑留体験でした。


「やっぱり伐採ですな。ノルマができないものは何時間だってやらせる。それでもできなかったら食料まで減らされる。どんどんどんどん体力が落ちていって、毎日2人から3人死んでいきました。」

70年以上前の出来事。
安田さんは『伝える』難しさ
感じているといいます。

「どこまでわかったかな。ちょっと難しい。言うても本当のことは分からんと思う。これだけは体験してみないと分からん。何べん苦しい苦しい言ったってそんなもん分からへん。」


『シベリア抑留』とは、
どんなものだったのでしょう?

戦争が終わった時、24歳だった安田さん。

「ちょうど軍隊に入って1年目になったとき。20歳のときです。」

「満州で撮った写真はみんなソ連に連れていかれた時にみな燃やしたんですわ。ほんまに写真がないんですわ。」


安田さんは、
今の中国東北部、旧満州に配属されます。
当時ソ連だったロシアとの国境近くでした。

「毎日ここから敵の様子を監視しとった。ずーっと24時間」

1945年8月9日。
戦争が終わる直前になって、
ソ連が突然参戦。国境を越え、攻めてきました。

「一番最初はソ連機が3機入ってきました。今までそんなことがなかったから、これはおかしいってすぐに司令部に行って、不明機が3機領内へ入ったと報告した。おそらくそれが一番最初の報告じゃと思う。それが開戦のはじまりでした」

戦争末期、
もはや戦う力が残っていなかった日本は、
ソ連の前に、なすすべもありませんでした。

日本は負けました。

降伏した安田さんたちは、
ソ連兵に促され列車に乗ります。

その時、耳にした言葉が、今も忘れられません。

「トーキョーダモイという言葉があった。ソ連もそういうことをちらつかせて、間違いないだろうということで貨車に乗った。『いよいよこれでシベリア鉄道で日本に帰れるわい』ってみんな喜んでね」

『ダモイ』とは、「帰る」ということ。
安田さんたちが、初めて覚えたロシア語でした。

今も変わらず走る、シベリア鉄道。
これで東京に帰る。
『トーキョーダモイ』
ロシア兵は、確かにそう言いました。
なのに・・・。

「乗ったとたんにみんなぐっすり寝てしもうて。朝汽車から、ある寝とったものが外を見たらね、太陽が列車の後方から上がっとる。太陽は東から上がりますわな。モスクワ方面に走っとると。全然逆やと。これは騙されたということになった。」

故郷・日本は、陽が昇る東にあります。
しかし、列車は逆の方向に走っていたのです。

囚われの身であることを
実感した出来事がありました。

「(汽車から)逃亡者が出て『銃殺する』と。汽車から皆下ろしてその逃亡者だけを歩かせてね。我々1000人が見ておる真正面でパチンと(銃で)やって殺しおって」


「それが最初の犠牲者でね。その死体はどうしたいうたら、そこへぽい、とほかしておいて列車は出ていく」

どこに連れて行かれるのか・・・。
自分は生きて帰れるのか・・・。

安田さんの抑留生活の始まりでした。

大陸で終戦を迎えた
多くの日本兵や一部の民間人は、
ソ連やモンゴルなどに、
2000か所以上あったといわれる
収容所に送り込まれました。

そこで、木の伐採や鉄道建設などを
強制されたのです。
60万人が抑留され
6万人が死んだといわれますが、
戦後74年たった今も、
正確には分かっていません。

抑留を命令したのは、
ソ連の指導者、スターリン。
ソ連もまたドイツとの長い戦争で、
多くの国民が死に、国は疲弊していました。
スターリンは、
不足した自国の労働力を補うために、
日本人を利用したのです。

安田さんが収容所に着いた10月。
もうシベリアの冬が始まっていました。

これは当時の収容所を再現したものです。

鉄条網が張られ、
四隅には見張り台がありました。

寝起きするのは、
すきま風が入り込む、粗末な丸太小屋。
ここで何十人もが、
重なりあうようにして寝たそうです。

マイナス40度にもなるシベリアの冬に、
薪ストーブひとつだけでした。

安田さんが命じられたのは、木の伐採です。
夏服のまま連れてこられた抑留者たちが、
まず戦ったのは『寒さ』でした。

「向こうはね、寒いんじゃない、痛いんですわ。痛い痛いいうの、寒いと。手の先とか鼻とかが一番最初に白くなって。凍てる。」

綾瀬)「鼻が?」

「お前、鼻が白くなっているぞと言われて、初めて凍傷になっていることがわかってね。慌てて凍傷のところを手でこすってね、手でこすってなんとか血行を良くする。それをしないと腐っていくわけですわ。だから手や指、手首を切ったりね、そういう人もたくさんおったですよ。だから凍傷はほんと、日本人はそういう経験がないから怖かった。」


寒さの次に襲ってきたのは、
『空腹』でした。

「腹減るもんやでもう必死なんですわ。私らはソ連の兵舎のごみ箱をあさった。そこへ行くとキャベツの葉やら料理した野菜の腐ったもんやらがほかしてある。それを拾ってくる。みんなで取り合いするわけや。ごみでも。65キロあった体重がね、38キロにまでなった。「もうお前は日本へ帰れんぞ、もうおそらくあかん」と言われるところまで痩せてしもうた。」

そして毎日、仲間が死んでいきました。

「死ぬ時でも元気がないんすわ。横に寝とったものを『おい』いうても起きんのや。よう見たら死んどる。もう死んだかわからへんのや。それぐらい衰弱して、ものも言わん。」

誰かが死ぬと、
悲しむ前にやることがありました。

「死んだらね、その人が着とったものを全部とってね裸にするわけさ。寒さからしのごうということで、その人の衣類をみんなで分ける。だからその人は裸にしてね、放り出されるわけや、かわいそうに。」

「そやけどもう皆ね、明日は自分もこうなるかもしれないという気持ちがあるから。かわいそうやいうことも言うとれんですわ。何とかして1日でも寒さから逃れて長生きしてもらうというふうにして。」


都内に住む中島裕さんもまた、
3年にわたりシベリアに抑留されました。

中島さんが描いた絵です。
みんな、がりがりに痩せています。

この女性は、
抑留者たちの健康状態をチェックする係です。


お尻の弾力でどの程度働けるのか、
判断するというのです。

「こういう風に、つまんでねじるわけです。ぷちんと戻る人は1級2級で「健康者」だということで」

栄養失調でやせ細っていても、
つねったお尻が元に戻れば、
重労働に駆り出されてしまうのです。

「見張りはね、こうやってカマンジール(監督)っていうのがいて、ムチを持っているんですよ。このムチを(仕事が)遅いとぴゃーっと振ってたたくんですね。たたかれると痛いんですわ。紫色に腫れ上がっちゃって」

中島さんも、寒さ飢えに苦しみました。

中島さんが再現した、当時の食事です。

「中身は雑穀です。ひえとかコウリャンとか。精白機がないから、ほとんど殻つきのままなんですよ。だからがさがさ食べると出る排せつ物が半分はじけたのが、ほとんどなんですよ。それをまたもう一回食べる。」

「洗い直して、煮て食べる。排せつ物を。ほかに食べるものがないから、おなかがすけばそこまで行きますよ。」


なんとしてでも生き延びる―

その思いは、あの安田さんも同じでした。

「もう次から次へと死んでいくのを見ると、ほんまかわいそうでね。わしももう一時はあかんかいなと思ったんだけど『くそったれ、こんなシベリアでは絶対に死なんぞ』ということで」

綾瀬)
「“絶対にここでは死ねないという”気持ちだけ・・・」

「信念です。それはもう信念です。これはもうあかん、いうたらみんな死んでしもうたけんね。絶対死んだらあかん、と思ってね。石にかじりついても死なない。」

気力だけで生き抜いた安田さん。
どうして仲間たちは、
死ななければならなかったのか。

今も納得できません。

「シベリアのはね、戦争が終わってからシベリアに連れていかれてそこで死んだ。これは戦争で死んだんじゃない。6万人くらい死んだんやね。死なんでもええ人間死んだ。」


「地獄」と呼ばれたシベリアは
どんな場所だったのでしょうか。

このアパートは、
抑留された日本人によって建てられたものです。

壁の数字は、アパートが建てられた年です。
30年以上ここで暮らしている
住民に聞いてみました。

日本人の勤勉さと丁寧な仕事は、
ロシアで高く評価されていました。

当時、多くの抑留者が、
こうした建物建設にも駆り出されました。

シベリア抑留から70年以上。
記憶も痕跡も薄れていきます。

安田さんが寒さと飢えと
仲間の死に直面した収容所。

その収容所は今、どうなっているのでしょうか?

体験を語ってくれた安田さんがいた
収容所に向かいました。

麦畑の奥に広がる森。
この森の奥深くに、収容所はあったといいます。

でも、今は道もなく、
村人も立ち入ることはできません。

収容所に移送される日本人たちが、
立ち寄った村があります。

当時、日本人の姿を見たという女性がいました。

近所に日本人がいるから見に行こう、と
いとこに誘われのぞきに行ったそうです。

窓越しに、身振り手振りで
『タバコをくれ』と訴えたそうです。

シベリア抑留で、
6万人近くが死んだことを伝えました。

「私のおじさんも、いとこも、(ドイツとの)戦争から帰らなかった。どの国でも、母親や妻はみんな、息子や夫の帰りを待っているんです。この戦争でどれだけの涙が流れたことでしょう。・・・戦争なんて・・・、戦争なんてなければいい。」


数年の抑留ののち
ソ連から日本に戻った人たちは、
舞鶴の港で祖国の土を踏みました。

壮絶な抑留を、生き抜いた人たち。
夢にまで見た、家族との再会。

最後の船が舞鶴港に入ったのは
戦争が終わって11年後
1956年のことでした。

引き揚げ船が着いた港です。
桟橋は、抑留者たちによって、
平成に入り復元されたものでした。

安田さんも、3年間のシベリア抑留を経て、
舞鶴に帰ってきました。
その時目にした景色を、
今も鮮明に覚えているそうです。

「これが素晴らしいんですよ。日本に帰ってきたらここはものすごく青くて綺麗かったんですわ」

安田さんは、
事実が語り継がれていくことを願っていました。

「戦争をするのは大反対ですよ。だから子どもらに話をするときも、もうわしも年やし、みんなに伝えることはできないし、おまえたちがこれからは伝えていってくれと。戦争がいかんのや。勝っても負けてもあかん戦争はー


正確な記録も、死者の数も
いまだ、はっきりしない、シベリア抑留。
安田さんたちの記憶を伝えていきたい、
そう思いました。