ほととぎす 著『異説妖々夢』 五十音レビュー「い」

「五十音レビュー」
 東大新月お茶の会のメンバーが、あいうえお五十音になぞらえて、ミステリー、SF小説を中心におすすめの作品を紹介します。毎週金曜更新予定。

 50音レビュー2回目の今日は、ゲームシリーズ「東方Project」の二次創作SSからの紹介。
『異説妖々夢』はファンタジー色のある“泣ける話”であり、西行寺家に永らく仕える半人半妖の魂魄妖忌を中心に「西行寺」と「魂魄」の二編から成ります。Flashでアニメ化されていたことから、その方面でも知っている人がいるかもしれません。

 本作で独特なのは、なんといってもキャラクターの心情が我が事のように体験されることにあります。
 私たちが小説を読む時、普通であれば小説の中の人物はあくまで他人であり、彼らの心情に「共感」はしても、その感情を「体験」することは稀です。
 例えば、敵に自分の家族を侮辱されたキャラクターが猛烈な怒りに駆られている場面を想像してみましょう。おそらくそのシーンで、私たちはキャラクターの激情に圧倒され、そのキャラクターであればそう怒るよな、と「共感」します。しかし一方で、私たち自身が猛烈な怒りを感じているかと言えば、それは微妙です。そのシーンに「共感」し、興奮していても、キャラクターが感じている怒りそのものは「体験」していないことが、おそらく一般的ではないでしょうか。(注1)
 そしてこの「体験」が発生しやすくなっている点で、『異説妖々夢』は独自の希少価値を持っています。
 ストーリー自体はありがちな“泣ける話”でありながら、そうした泣きの手法に安住せず、文章によって悲しみから泣きに至るまでを「体験」できるよう徹底されている。いうなれば泣かせ系の小説技巧の集大成として、これ以上ないほど上質な“泣ける”物語になっているのです。
 初読時には純粋に物語を楽しんで欲しいので、文章の工夫に関しては本記事の末尾にて解説しますが、泣きゲー、泣きアニメといった“泣き”が小説で再現されるとはどういうことなのか。ただの文字列に過ぎないはずの文章が、その次元を超えてこちらの感情に働きかけるとはどういうことなのか。その手のジャンルに性癖が囚われている人や、文章を超えた文章に対してフェチズムのある人にはおすすめの一作です。(注2)

 アーカイブ化されたことで各話に飛ぶリンクタイトルだけ文字化けしていますが、『異説妖々夢』ページ内の上から順に話数が並んでいます(全6話)。リンク先の本文は生きているので、そのまま楽しむことができます。
 なお二次創作とはいえ、自分は原作の知識がない状態で本作を読まされて楽しめましたので、雰囲気に乗るつもりで読めば原作を知らずとも楽しめる……はずです。

『異説妖々夢』における文章の工夫について
 ここでは本作における感情の「体験」を成立させている文章技巧について、手短に触れます。
 本文を読んでからの方が理解しやすいと思われますし、また、初読時の段階で分析的な視点を持っていると物語を純粋には楽しめなくなる懸念があるので、未読の人は先に本作を読まれることを推奨します。趣味的な分析なので、分析が間違っていたらすみません。

 本作ではあくまでも他人である登場人物に対し、読者の感情を半強制的に同調させることで「体験」を成立させています。言い換えれば、『異説妖々夢』の文章の凄さは、読者が登場人物に同調するための数々の工夫にあると言えます。
 ここでは同調に至るまでの工夫と、そこから同調を維持する工夫の2段階に分けて考えます。

 第1の同調に至るまでの段階では、自由間接話法による主語の排除が行われます。本作は、形式としては三人称文体を取るものの、主語が明示される回数は最小限に抑えられており、各段落における視点人物が明示されたあとは基本的に、そのキャラクターの思考や心情を追うだけで場面が進んでいきます。また全体の構成でも、後ろへ進むほど主語の明示回数は減っていき、ほとんど視点人物の心中文を追っているような状態になります。
 繰り返しになりますが、基本的に私たち読者は登場人物とは赤の他人の関係です。そして読み進めるうちに彼・彼女らのことを知っていき、読み終わった時にはまるで数年来の知己であったような気分になるのです。ですから、最初から「俺だよ俺!」と馴れ馴れしく寄ってこられても「いや知らんわ、こっち来んな」となるわけで、作品としては読者が状況を飲み込めるまでは主語を明示して、登場人物を紹介する必要があります。
 一方で、登場人物と読者を同調させる目的からすれば、登場人物が他人であると意識させることは望ましくありません。主語は三人称であれ一人称であれ、読者が読者であることを、すなわち作品内にいる登場人物とは別の世界の住人であることを自覚させてしまいます。したがって、同調のためには主語をあまり明示しない方が望ましく、そのために、前後の文脈と心中文での説明によって主語の必要性を削っていき、読者と登場人物の間の境界を曖昧にしていく……。
 このような主語のフェードアウトこそが、読者の心情が登場人物のそれに同調するまでの誘導を果たしていると考えられます。

 さて、第2段階ではここからさらに、登場人物と本文文章の同調が徹底されます。
 今、主語がフェードアウトしていったことで、読者は登場人物に同調しています。しかしながら物語『異説妖々夢』としての目的は、ただ同調することではなく、その先にある“泣き”にあるため、登場人物が泣くに至る心情の動きを文章として再現出来なくてはなりません。
 ここで行われる工夫が、文法の崩しであり、また短文による身体感覚の端的な描写です。
 後半3話の「魂魄」を例にとれば、作中、妖忌の最期を受け止められない妖忌の孫娘・妖夢の激情が描かれますが、その際の文章には心の乱れに同調するように、体言止めや文章の中断といった通常の日本語文法からは逸脱した表現が多用されています。
 また泣く際の描写では「胸が痛い」「締め付けられる」「うまく息が出来ない」といった、泣く時の身体反応としても現れる感覚を使用して、身体的な共感を誘うことによってこちらの泣きを強化しています。
 感動泣かせ系の作品には「とりあえずキャラクターに涙を流させたら良いと思っている」的な内容の批判がしばしばされますが、しかし一方で、そういう直球に身体性のある描写が根強く支持されているのは、それが読者の共感を誘うためには効果的だからでしょう。
 私たちの行動には、思考や心情をそのまま文章化しては描けない、単に行動を描くことでしか表現できない力ある動きが存在します。また、言葉にすることすらままならない激情を描くためには、あえて淡白に素描することこそが、「言葉にならなさ」の間接的な表現になるのです。本作は、この「言葉になる」部分と「言葉にならない」部分の使い分けが非常に巧みです。
 かくして『異説妖々夢』では、激情に見舞われる登場人物たちの内面を「体験」するという、まるで仮想現実への没入のような珍しい読書体験をすることが出来るのです。
(三木光)

(注1:心情を喩えに出されてもよくわからない、という方は、痛みを例に考えてみると良いかもしれません。例えば、キャラクターが敵の攻撃を受けてその痛みが描かれているとします。これについて私たちは、痛そう!と「共感」はできますが、実際に自分の肌が切れたかのような痛みを「体験」することは、あまりないのではないでしょうか)
(注2 : 本作は読者の感情を文章力によって半強制的にキャラクターのそれに同調させる点で、まさしく感動ポルノ的な作品でもあります。苦手な人はご注意ください)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?