見出し画像

丁寧に綴る

noteは細々と続けています。
連日投稿することもあれば何ヶ月もお休みすることも。
その気ままさは私の人生そのもの。
それが心地いいのです。

自己表現に対しては苦手意識があります。
会話も文章も創作も身体を動かすことも全て。
余計なことをあれこれ考えてしまうのです。
素直に表現できないというのは、周りの反応を気にしすぎるからでしょうか。

noteも書いては消し書いては消しを繰り返します。
考えるのが嫌になって諦めたときにやっと投稿できるのです。
誰に見られるわけでもないのに不思議ですよね。
(見てくださっている方にはとても感謝しています!)

noteのような他人の目をほぼ気にしなくていい場でも表現に苦しむというのはどういう意味があるのだろう?
他人の目が気になるのであれば、見られる心配がない個人の日記帳に書けばいいのではないか?
そんな疑問が湧いてきました。

結局のところ、私は自己表現を諦めきれないのだと思います。下手の横好きとでも言いますか。
他の人の反応も本当は知りたいのです。

アウトプットが上手な人には盛大に嫉妬します。
口が上手いタイプの人を毛嫌いしてきました。
今思うと投影だったのだと思います。

上手く表現できない自分に落胆する、ということはこれまでの人生の中で何度も経験してきました。
「私の中は空っぽ。あっても薄っぺらくて表現する価値のないもの。」
無意識のうちにそう思うようになりました。

表現したいということは表現したいものがあるということの裏返しです。
そうであるならば、私の中にも表現したい何かが確実にある。
この気づきは自分でも意外で、とても嬉しいものでした。

表現力に落胆する、ということをもう少し紐解いてみます。

文章であれ会話であれ言葉にすると自分の中にあるものとひどく乖離しているように感じてしまいます。自分から発したものなのに言葉はいつも他人顔です。

乖離を感じるくらいはまだかわいいもので、ひどい時には自分が発した言葉が人を傷つけます。
そして、巡り巡って自分も大きな傷を負うのです。

そういった苦い経験を重ねて、いつからか表現することを極端に嫌うようになりました。

自分で言うのもおこがましいですが、私はそんなに悪い人ではありません。
でも口を開けば人や自分が傷つく。
それがとにかく悲しくて耐えられませんでした。
今ではすっかり「相槌を打ってニコニコする」という対処法が身につきました。

言語化におけるスキルは様々です。
語彙、起承転結、他者視点など。
会話であればタイミングや声のトーンなども大事になってきます。
そのどれもが未熟であることは自覚しています。人にアドバイスを求める、できる人の真似をする、研修を受ける、本を読むなど自分なりに努力はしてきました。

言葉には人間性が表れます。
スキルを向上したいのは自分の空っぽさを隠すためでもありました。
言葉の未熟さよりもその奥にある人間性の未熟さ
と向き合うのが怖かったのです。

私は口数が少なく動きもゆっくりです。
いわゆる内向型の人間だと思います。
他人からは「何を考えているか分からない人」に見えるでしょう。

一方、“中の人”である私は全然違います。
日々のちょっとした出来事に感情が大きく揺れ動く激情型です。
頭の中は多動でいつも自由。
抱えている感情とイメージは膨大なのです。

これまで散々“中の人”には失礼なことをしてきました。
本来は悪人でもなく、感情も発送も豊かなのに、全く上手く表現してあげられなかった。

自分の中にあるこの感情の畝りと膨大なイメージを表現できるよう日々精進していきたいと思います。
とはいえ、人間性もスキルもまだまだ未熟者。
今の私にできることは心を込めて丁寧に綴ること。ただそれだけです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?