見出し画像

夏目漱石『虞美人草』(1907年)を読む。

「東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。」という、『虞美人草』(新潮文庫、S26年)を読了。

この本を読もうと思ったきっかけは、好きな思想家の一人である内田樹さんが『街場の文体論』(ミシマ社、2012年)でこのように書いていたからだ。以下「第14講リーダビリティと地下室」より。

明治期の知識人たちの超人的な知的活動を駆動していたのは、競争優位に立って、「いい思い」をすることではありません。国を救わなければならないという切羽つまった義務感です。...(中略)...漱石という人は東京帝国大学の英文学の教師でしたが、大学で英文学を講じていただけでは「もう間に合わない」と思い切ると、学校を辞めて、朝日新聞の社員になり、『虞美人草』を書き始めます。明治の青年に向かって「人はいかに生きるべきか」を物語的な迂回を通じてですが、縷々説き聞かせた。___内田樹『街場の文体論』、ミシマ社、2012年、276〜279頁

夏目漱石たち明治の知識人(福沢諭吉、西周など)が、西洋の学問を輸入翻訳し数多くの本を書き残した理由は、内田さんが引用文中で述べているように、当時世界から取り残されていた小国日本を強大な欧米列強によって食い荒らされないよう防御するためには、国としてのレベルを国民一人一人という個人レベルから高めることが不可欠だったからだ、という意見には反論する必要もないだろう。

その個人レベルでの成長は今の日本にとっても急務であると私は考えているから、この本を読んだ。その確証と、ヒントを得るために読んだ。

なぜ、個人レベルでの成長が必要か。急速なグローバル化、蔓延する差別、緊迫する環境問題、などなど、世界は刻一刻と変わっている。多くの移民が日本にも来て町中で日本語以外の言葉を耳にすることも多い。北極海の氷は年々減少し続けている。(JAXA|北極海の海表面積が9月13日に年間最小値を記録

そんな中で、私たちはいつまでも既存のやり方に従っていてはいけない。

人は、成功体験が好きだ。だから、それにしがみついてしまう。1985年のプラザ合意では、時代が変わったのだという外国(アメリカ)からの警告を無視してそれまでの無茶苦茶なやり方を変えずに日本人が働き続けた結果、日本は国にお金はあるくせに人々は貧しい国となってしまった。

その感情がわからないわけではない。だが、それではもう滅びるしかない。今の日本の政府のやり方をみると、その滅びへと向かっていっているように私は思う。かつての栄光やプライドに縛られ、未来を顧みず、過去の判断を撤回することもできず、このままでは日本は滅ぶ。

だから、もう政府には頼れないとしたら、私たち一人一人が、自分で一歩を踏み出す必要がある。それも、手遅れにならないよう、今すぐに。

そもそも、それが民主主義だったはずだ。だから政府のせいにしてはいけないな。

これまでのやり方が通用しないこれからを生き抜いていくために、過去を道標として頼ることはできない。しかし、何もない状況でその一歩を踏み出すことは非常に困難だ。前の見えないを進むときに灯りとなるものが必要である。そしてそれが思想だと私は考える。

自分たちがどう生きたいか、その理想を一人一人がもっていれば、私たちはきっとあるべき未来へと進んでいけるだろう。論語では、道を間違えることは許される。間違えても、軌道修正してまた正しい道へと戻ってこればいい。その時に必要となるのが灯りであり、思想だと思う。(安冨歩さんのアイディア)

新しく切り開いていかなければいけない未来を構想する時に、過去を道標にはできないと前に書いた。しかし、参考にすることはできると訂正したい。

日本語を母語とする私たちはその母語を媒介にして、死者たちの残した莫大なアーカイブにアクセスし過去と触れ合うことができる。(内田樹さんのアイディア)

そのアクセス方法のひとつが文学だと思う。明治の世、日本という小さな島の上で時代は大きく変わっていった。その激動を経験をした先人たちが何を考え、どう変化に対応していったのか。いや、対応するという受動的な態度ではダメだ。きっとそれでは遅すぎる。どう変えていくか、それを私は知りたい。だから、私はこそ、夏目漱石を読む。

***

というように、意気込んで読み始めてはみたものの、未熟な私にはまだまだ読み深められない部分も多かった。これは「青年に向けて」書かれたものだろう。それすら読みこなせない私は未熟なのか、それとも明治時代の「青年」は、平成の私よりはるかに優れていたのか。プライドもあるので後者と賭けたいが、それならばそれで虚しいものがある。

かろうじて、小野と甲野の違いが理解できたくらいだ。宗近については、まだわからないことが多い。

ただ、小野のある言葉が印象深く残っていて、それについてずっと考えている。

自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。こう云う書斎はその条件の一つである。ーー小野さんはこう云う書斎に這入りたくてたまらない。___夏目漱石『虞美人草』、新潮社、S26年、262頁

きっとこの引用部分後半が、内田さんをして小野を「自分の受けた教育を、自己利益のために排他的に用いようとする青年」(内田、2012、278頁)と評することになったのだろう。だが、前半は彼(小野)が「身につけたすべてを世のため人のために使う覚悟でいる」(同上、278頁)とする宗近と相違しないのではないかとも思う。それで、私の中での宗近像がいっこうに定まらない。(失礼を承知で彼が内容を混合しているなどという可能性も少しは考えた。)義理堅く、真面目を愛し、正義を執行する男、として捉えるべきなのかもしれないが、夏目漱石の『心』に惚れ込み、駆け出し漱石ファンとなった身としては、それ以上の意味を宗近には見出したいような気がして、彼については自分の中での評価を私個人の未成熟を理由として保留にしたいと思う。宗近の物語後半での、小野に対しての変貌もまだ消化しきれていない。

ただ、(銀時計をもらうほどの小野のような)どんなに英知に溢れた人間でも金のために歪められてしまう、という事実だけがそこにあるような気がして、とても虚しい思いになった。これが、ひとまず初回の感想である。

この本から学んだ思想があるとすれば、それは、知識とは私的なものではなく、社会に還元すべき公的なものだということ(の再確認)。そして、その思想はお金によって歪められるべきではない、だろうか。

***

蛇足だが、著者の夏目漱石はこの作品について以下のように言及している。

『虞美人草』は毎日かいている。藤尾という女にそんな同情をもってはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつをしまいに殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。しかし助かればなおなお藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲学をつける。この哲学は一つのセオリーである。僕はこのセオリーを説明するために全篇をかいているのである。だから決してあんな女をいいと思っちゃいけない。小夜子という女の方がいくら可憐だかわかりやしない。(明治40年7月19日小宮豊隆あて書簡)___東北大学附属図書館「虞美人草」、http://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/syuyo-gubijinsou.html、(11/19/20)

今回は三人の青年の思想や生き方を焦点に初読を終えたが、次に読む際にはこの藤尾に注目してみるべきかもしれないと思った。彼女についてはほとんど無視していたと言っても過言ではない。あれほどインパクトがある(らしい)女性であったとしても、私にそれほど響かなかった理由は、今の時代にはそのような女性がありふれたものになっているからか。



11/21/20 土曜日/あかつき冬丸/

***我が愛すべき地元、福島いわき「和カフェ Wa Wa-和輪-」でのひととき。ランチの「おにぎりプレート」に食後の紅茶もつけて¥1,250。紫蘇のはいった出汁巻き卵がトロトロで香り高くとても美味しい。料理が出来上がるまでのジュワ〜ッという作業音も耳に心地よく、最高のひとときを過ごせた。ご馳走様でした。今度は友人を誘って行きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?