私の適職 (INFJ)

いつからかはわからない、私はいつも自分に何かが欠けている感覚を持っていた。
確実に存在した、しかし見失ってしまった運命の人を探している感じでとても辛く苦しかった。
その何かは、私はこの世で自分が身を捧げてすべきことがあるんじゃないかということだ、そのために生きているのではと。しかし、何をすべきなのかは全くわからなかった。

私を知る人は、私を恵まれて、あまり不自由なく育ったと印象を持っていたと思う。私もそれは否定しない。

このような悩みを数える程の親しい人達、家族にも言えなかった。
彼らには彼らの人生があり、その中で彼ら個人の悩みや苦しみがあり懸命に仕事をして生きていることも十分想像できた。
優しい人たちだ。親身に聞いてくれ、傷つかないように助言をくれたかもしれない。けど「現実的になれよ」「理想高過ぎじゃない」「何か騙されてんじゃない」と思われるのは心底恐ろしいことだった。
確信がなく、私もそうかもしれないと思うことがあったからだ。
私の価値観、存在意義を共有できないのは辛かった。そして孤独だった。

恵まれていてしかも俗物なものにあまり興味がないのに、そんな抽象的で高尚な目的を持つのはむしろ貪欲なのではと思ってしまうこともあった。

「知足」「些細な日常に小さな幸福を見つける」その言葉は私も好きだし随分前から知っていた、実践して精神的には随分楽になった。
けど、それでもなお、この世に生まれてきたからには何かやるべきことがあると思うのだった。そしてそれはこの世の中で生命と繋がりながら仕事ととして、あるいは仕事のようなもので。

そんな漠然とした理想を抱いても生きるために何かしら働き続け生活しないといけない。

私は今までいくつかの仕事を経験してきた。輸出入の企業、食品会社、行政機関向けの書類作成、データ分析。
根は真面目だから懸命に働いた。それなりに仕事もできたと思う。その仕事の社会的存在意義を理解しようとしたし、好きになろうとした。私の中の価値観を重ねようともした。
しかし仕事は2、3年で辞めた。もっともな理由で支障なく辞めれたが、辞めた時には心からホッとした、このまま続けていたらいずれ心身に異常をきたすとわかっていたからだ。

何をやるべきかわからないにもかかわらず、これが本当にやりたいことではないと思いながら、無理に体を動かし、頭を働かせるのがとても辛かった。

休日は疲れて何もすることができなかった。ベットの中でこのまま寝て目が覚めなければいいと思ったこともあった。
心身共に本当に辛いとき救ってくれたのは私が好きな作品たちだった。いや作品というよりも、作品の美しい一片、心に響いたワンシーン、イメージ、象徴、心境だった。
あまりにも疲れ過ぎて読んだり、鑑賞することさえやりたくなかった。布団の中でそれらを思い出し、一つになることで救われたのだ。

私は美しい旋律を思い出しては、その旋律そのものになり体が軽くなった気がした、画家が描いた霧がかった優しい光は、それに照らされると全ての物質の輪郭が消え一つになる感じがしたし、ある詩は私の中に、たくさんの星が散らばった宇宙が流れ込んでくるような気がした。旅する風、揺れる美しい一輪の花、りんごの木、ナイトスイミング、線路の上を歩く二人の少年、利他的に生きた人が歩んだ一筋の光、遥か彼方で見守ってくれる親友。

私もこのような素敵な作品を何か作り出せればいいなと何度も思った。

そう思いながらも、どうして私には心揺さぶる旋律、詩、文章を授からないのだろう。どうして何も表現できないのだろう。どうして私は疲れてばかりで彼らのような情熱がないのだろう。どうして一筋の光が差し込んだ道を歩むことができないのだろうかと思った。

時間は過ぎ、年を重ねるに連れて、このような美しいものを作り出すのはもう完全に手遅れだと思った。

少しでも私の価値観、能力にあった仕事をしながら、今あるのもに満足して好きなことをやろう。運がよければ新たに好きなことを見つけるかもしれない、そしてそれが生きる拠り所になるかもしれないと漠然と思っていた。
そしてまた疲れたら本当に好きな作品に癒されながら生きてゆくのだと。

仕事は続く。
昨日のような今日だ。そこにどうにかして生きる意味を見出そうとしていた。
いつも心身ともに疲れていたときは、「この仕事も誰かの役に立っている、この仕事も誰かの役に立っている」と何度も心の中でを唱えて仕事をやっていた。
私だって世の中のほとんどの仕事が人の役に立っていると思うし、サービスを提供してくれる人には尊敬を払い感謝もしている方だと思う。
仕事を通して客や取引先、手助けした同僚から感謝されることもあったし、嬉しい気分になった。
しかし、そこに生きる意味を見出すのはできなかった。なぜこんなに生きる意味を問うのかもわからなかった。
私の人生は探し続ける状況がずっと続くのかと。それは本当にしんどいなと思った。

私は現在、幼児、児童を対象にしたセラピストをしている
その仕事を始めたきっかけは職を失った後、何かが閃き私の中で繋がった。この仕事は私に向いているかもしれないと思い、衝動的に応募した。
面接を受け運よく採用されたのは良いが、いざ採用されると不安しかなかった。その当時も心身疲れていた。多様なバックグラウンドを持つ子供たちを私が手助けできるのかと。そもそも溺れるものが誰を助けることができるのかと。

いざ決心をして仕事をしてみると、私にとってごく自然なことをしているだけでなぜかよく褒められ、感謝された。セッションは1対1が基本なので他のセラピストがどのようにセッションをしているかはしらなかった。たまに視察に来る熱心な上司達の言うことを素直に聞いて、技術を身につけて、正すべきとこを正せばよかった。数ヶ月後には3人の上司が私のパフォーマンスを賞賛し表彰してくれ、賞品ギフトカードを手にしていた。

不思議な感じだった。懸命には働いたが、自分を無理やり働かせてるって感じはしなかった。

私には何が子供にその言動をさせているのかってことや、子供の表情、身振り、言動の背後から彼らの気持ち、望みが直感的にわかったし、問題行動があればどうやればそれを抑えることができるか分析し、子供のモチベーションを見出して、優しく楽しく接しながら問題を改善させたり、必要なスキルを学ばせることはことはむづかしくはなかった。

他にも、完璧とは言えないがこの今の状況から何が危険になるかをすぐに察知でき事前に防いでいたので、上司や学校の先生からは危機管理能力があると思われ、クライアントの両親からは安心して我が子を任せられると思われていた。

子供達が今までできなかったことが、できるようになったりすると、私はとても充実した気分で一日の仕事を終えることができた。

私のことを先生と言ってくれるクライアントの両親もいたが、私が子供達から教わることも多かった、たくさんのことに気がつかされた。彼らを見てると、鏡では映らない自分自身をみてる感じになることがあった。

もちろん懸命に仕事をしているので疲れるのは当然だ。しかし私は「この仕事も誰かの役に立っている」という言葉を唱えてないことに気がついた。

私も捨てたもんじゃないな、少しだけ人としてましになったんじゃないか、と思うこともあった。

この仕事は私に向いてるんだな、適職なのかもと思った。
この仕事をしながら好きなことをしたり、新たに好きなことを見つけていけばいいのかもしれないと思った。
けど、好きなこと、やりたいことリストを作っては、こんなこと全部やっても私は消耗するだけで、その中に本当にやりたいことがないのはわかっていた。

これが今の仕事を始めて1年目から3年目頃の私の心境だった。

つづく

#INFJ #HSP