見出し画像

無知が歪める認識(宗教編)

例えば、見出しのような写真が説明も無しにSNSにアップされたり、メディアに使われたら見た人の中には、やっぱりイスラム教は怖いという印象だけが残る。この男性の笑顔の写真もあるが、あえてこの写真を使うことで印象操作ができてしまう。特にネット記事の見出し写真だけパッと見て、ミスリーデイングしてしまう人も少なくないのではないか。

ちなみに、この写真はイスラム教のコルバニイード(犠牲祭)中の写真である。犠牲祭とは、イスラム教の祭りで牛やヤギに自分の名前を付けて屠殺し、神様に献上するものだ。包丁を持った男性は、屠殺の一刀目を任されている正式に認可を受けた宗教関係者である。

バングラデシュに来る前は、私はイスラム教=怖いというイメージがとても強かった。同じように感じている人もいるのではないか。イスラム教と言えば、テロが起きる度にテレビでその名前を聞く程度であった。イスラム教がどんなものか、そしてそれを信じる人たちの事も知らなかった。人は知らないものに恐怖を感じる、だから知識を身に付けることは必要だと思う。


アナタ、宗教ナンデスカ。

私は、バングラデシュに住んでいる時に人に会う度に毎回宗教を聞かれていた。自分が何の宗教なのか特に考えたこともなかったので、無宗教と答えていた。そうすると、私が質問の意図を分かってないと思われ「あなたの宗教は何ですか?」ともう一度聞き返される。

宗教を熱心に信仰している人にとって、宗教への信仰心が低いことは信じられないみたいだ。ホームステイ先のおじさんは県のキリスト教会の偉い人だったので、よくキリスト教の関係者が家に来ていた。ある日、おじさんは信者たちにこう言っていた。

「日本では宗教を信じている自覚がある人が少ないのに、人々はしっかりと規律を守って生活している。これは信じられない。不思議だ。」

カティラ村のおじさん

つまり、この国では宗教がある種の人として正しい行動を取るための規範の役割になっているようだ。それを聞いて、私も何故だろうと思った。島国日本は、古くから単一民族で生活しているので、空気を読むことに長けてい流ので周りの目を気にするのではないか。もしくは、戦前の「修身」から脈々と続く「道徳教育」のおかげなのかもしれない。


呼吸をするのと同じくらい当たり前

ムスリムは一日5回のお祈りをして、ヒンドゥーも毎日お祈りをして、キリスト教は教会に行く。宗教は怖いものでもなく、歯磨きや手洗いのような生活の一部になっている。

ある日、船で移動中に甲板の上でスーツを着た知的そうなビジネスマンと会話をしていた時に、「この国に来る前、私はイスラム教に怖いイメージしかもっていなかったのだが、テロリストなどについてどう思うか。」と聞くと、その男性は答えた。

「テロ行為は、ムハンマドの教えにない。一部の原理主義者がやっているだけで間違っている。一緒にしないで欲しい。キリスト教も同じで一部の原理主義者がいき過ぎた事をしているが、メディアはイスラム教ばかりを特集して報じている。」

なるほど、まさに切り取られた一部しか見ていなかったのかもしれない。同じ宗教を信じる人の中でも、解釈の違いで蛮行に走る者も出てくる。自分で考え行動する為に、あえて解釈にゆとりをもたせるのはいいが聖戦という名の大義名分でテロ行為も起きてしまうのが現状だ。
じゃ、なんで彼らはテロをするのか。その原因まで知ろうとする人は多くないのではないか。あなたはどうでしょうか。

断食月、ラマダーン

イスラム教徒は、ラマダーン月に日の出から日没にかけて断食することによって、空腹や自己犠牲を経験して、飢えた人や平等への共感をする。親族や友人と共に苦しい体験を分かち合うことでイスラム教同士の連帯感を強め、貧しい人への施しも行われる。また、自身を清める目的でもある。

私も首都ダッカにいる友達の家に泊まり込みで断食することにした。
なるべく余計な体力は使わないように行動したが、水が飲めないことが一番辛かった。15時以降から頭がボーッとしていて、こんな状態でよくみんな仕事ができるなと感心していた。一緒に行っていた現地の友達は慣れているせいか、ケロッとしていた。

中には、お店の入り口を布で目隠しのように覆っている店もあって、隠れて食べ物を食べたり、喫煙している人もいた。

食べたい時に食べれて飲みたい時に飲めることって、本当に幸せなことだと実感した。飢えている人の気持ちを考え、自分を清める為に一年に一度ならしてもいいかなと思えた。

一方で、これは断食を体験する前の話だが、私はキリスト教徒とヒンドゥー教徒が住む村にいた。当然、村では断食の習慣がなかったので私もリキシャ(人力車)に乗りながら何食わぬ顔をして朝ごはんのバナナを食べていると、道路沿いの店にいた老人にいきなり怒鳴られた。最初、何故だか分からなかったが、隣にいた同僚のベンガル人が気付いた。私たちは、イスラム教徒が住む隣村に入っていたのだ。

その当時、私はムスリムのように長い髭を生やしていたのでイスラム教徒に間違えられて怒られたのかもしれない。イスラム教徒が勝手にやっているから私には関係ないだろうと思ったが、そういう人もいることを頭に入れ、尊重しないと島国の日本では想像できないが、世界規模で考えれば当たり前のことなのかもしれない。


教育の力

巡回している小学校で2年生の理科の授業を観察している時に、
先生が「みんなが吸っている酸素はどこから作られているの?」という質問に対して、イスラム教の子どもたちが「アッラー」と答えた。他のキリスト教とヒンドゥー教の子は、「木」と答えていて宗教の違いを改めて感じた出来事だった。

先生は木が酸素を生み出している事を教え直していたが、
その時、私は教育には大きな責任が伴い、同時に間違った事は教えられないと想いを巡らせていた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?