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わたしは年中で「もうこどもじゃない」と叫んだ

「次の問いに答えなさい」
「うるさい命令するな」


テストの問題文の文調に毎回キレながら答案を書いた小学生の私だが、誰かとケンカすることはほとんどなかった。当時わたしが怒ったのは、トモキ君が我が家に遊びに来たあのときぐらいである。

私の母親が出したコーラガムなどのおやつを私が分けようとすると、トモキ君が「かして!ぼくやるよ」と言ってコーラガムを開封して半分に折り、片方は自分の手に、もう片方を床に置いて、「はい」と私に差し出した。しばらく時が止まった。目の前の出来事を理解した私は、2秒ほどの間をおいて「犬じゃねえわ」とトモキ君に殴りかかった。

コーラガム床置き事件は完全にトモキ君が悪いので論外とし、私は小4ぐらいから自我が出てきて、比較的大人しく目立たない児童であった。ガムを折って床に置かれない限り、キレて手を出すことはない。自分を客観視できるようになってくると、授業で手を挙げて発言するのが恥ずかしくなり、自分の言動を「もう一人の自分」が監視しているような気がした。

*

小4のある日、道徳の授業で『この行為に賛成か反対か』というテーマが扱われた。私は考えがまとまらず、賛成にも反対にも手を挙げられなかった。そんなときに限って担任のO先生は私をあてる。

「○○君は賛成にも反対にも手を挙げなかったけど、どう思いますか?」

私は慌てて思考を整理し、考えながら話した。

「どちらでもないです。もしA君がBさんの行為を嫌だと思っていたら、A君がかわいそうだけど、BさんはA君のことを思ってやっているので、どうしようもない気がします。これ以上は二人が何をどこまで認められるかという問題なのでこの文章からでは正確に読み取れません」

話し終えると、誰よりも長い私の発言に時が止まった。端的にまとめられなかったという小恥ずかしさがあったが、同時に自分なりに考え切ったという感覚もあった。不安な私に、O先生は「なるほど、しっかり考えていますね。それを発言すればいいのに」と肯定的に返してくれた。

その瞬間、教室には35人の児童が居たはずなのに、まるで私とO先生だけで対話をしたような感覚になった。宙に浮いたような心持ちのままチャイムがなり、道徳の授業が終わった。

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あの道徳の授業からしばらく経って、前期の学級委員を務めているクラスメイトから、「O先生が、後期は君に学級委員になればいいのにって言ってたよ」と聞いた。見知らぬところで、O先生がひっそりと私を推してくれているらしい。

でも、いざ宿題提出だのなんだでO先生と対面して話しても、特に何を褒められるわけでもない。むしろちょっと厳しくなったように感じていた。ただ以前と明らかに違うなと思ったのはO先生の表情で、包み込むような強さをもった笑顔をしていた。思い込みかもしれないが、「君ならできるでしょう」と言外の意を感じた。

「しっかりしてるんだから、もっと発言すればいいよ」
O先生がたまに私に言うのは、それだけだった。でも、たったそれだけの言葉と、すべてを受けて入れてくれるO先生の存在がうれしくて、私はもっと、どこまでも行っていいのだと思えた。「私を監視する自分」は影を潜め、私は生きやすくなった。

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中学生になり、陸上部に入った。入学当初、「足が速い」という理由で短距離競技(100m、200m走)を専門としたものの、周囲がタイムをどんどん上げていく中、私は全然足が速くなることはなかった。

冬になると、専門競技に関係なく、マラソン大会に出場させられる。私のような短距離走の人も、砲丸投げの人もみんなだ。私は長距離走が一番苦手だった。練習でも大会でも後ろから何番だ。

ただ、どんなに辛いマラソンでも体質のためか私はあまり汗をかかず、顔色もあまり変わらないかった。女子たちは、ほかの男子を「■■君ファイトー!」と応援しているのに、私に対しては「でも○○君、本気出してないよね」と言う。応援してくれ。本気なんだ、これが。

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私だけ女子に応援されなかった経験を経て、高校生、大学生、社会人と上がっていくにつれて、自分が他人と比較してズレていること、特に感情の起伏の少なさをあらゆる人に指摘された。

喜怒哀楽の波が(他人と比較して)乏しく、だれかに怒ることもなく、カラオケでハイテンションになることもない。さらに酒に酔いにくい体質、汗をかきにくい体質などがそれを後押しする(年齢と脂肪を重ね、現在は汗っかきになってしまった)。

たとえば大学や会社の飲み会に参加すると、多くの者は人が集まったことで気分が高揚し、酒を飲みリミッターが解除され、カラオケでは叫び踊り狂っていた。私は人混みが苦手で、あまり酒に酔わず、叫んだり踊ったりすることができない人間なので、もはや生物として彼らと私は違うのではないか、私はこの社会に居てはいけないのではないかとすら思った。

一方で、そんな私を「穏やか」「落ち着いている」とポジティブに受け取ってくれる人もいた。彼らとは友人になったり、恋人になったりした。でも、学校を卒業するタイミングで私が連絡をしなくなったり、ネットゲームに夢中になってフラれたりして関係が終わって、今では地元からの友人2名としか連絡を取ることはない。

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内定が出ぬまま大学を卒業した私は、学習塾にて2年半働き、その後1年間のニートを経て、障がい児を支援する仕事を6年務めた。どちらも子どもを対象とする仕事である。

私は、小学生のときから、上から目線で物を語る教師が嫌いだった。「〇〇しなさい」が口癖の教師もダメだ。私たちを何だと思ってるんだ。子どもじゃないんだぞ、と思っていた。

保育園のころ、教育テレビをすすめる母親に対して「もうこどもじゃないから」と一蹴し、『おかあさんといっしょ』を観なくなった私は、年中ぐらいから、心の中では子どもを卒業していたのだ。

私の気持ちを、考えを聴いてほしい。同じ人間として対等に、扱ってほしい。そうだ、あのO先生のように。

だから私は、私が子どものころに好きだった、求めていた「おとな」を目指した。以下は、障がいを抱えた子どもたちと関わったときの話だ。

ゲームが好きな子どもが居た。好きなゲームを聞いて、次に会うまでに内容を調べておく。ゲームの好きなところを教えてもらう。「マリオカートのオンライン対戦をやると負けてイライラするからやめた」という私の話をして、相談にのってもらった。大人でもゲームに負けて怒ることを聞いて嬉しかったようで、何回もその話をさせられた。「コンピュータならかてるよ」と助言をもらった。

工作が得意な子どもがいた。わたしは死ぬほど美的センスが欠けており、何かを作ると大人にも子どもにも笑われるので、彼にお願いして教えてもらったり、作ってもらったりした。

いろいろできるのに、自信がない子どもがいた。わたしは文字を書くと下手すぎて周囲の邪悪な「大人たち」に「アラビア文字」とか「ヒエログリフ」とか言われるので、彼女にこの文章を書いてもらえないかとお願いすると、「しょうがないなあ」と気だるげに笑いながら書いてくれた。

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私が保育園の頃に「脱こども」を自称し、教育・福祉関係で10年務めてきたこれまでの肌感だが、子どもをひとりの存在として認められない人が意外と多い。「大人の自分」は子どもを導く立場ではあっても、優位な立場ではない。人間とはどこまでも対等である。そこに、年齢や性別、病気、障がいなどは関係がない。

私は、字も下手、絵や工作も苦手、ダンスや運動も苦手だから、子どもたちに教えてもらうか、やってもらった。そのかわり、ややこしい人間関係やマナー、面倒くさい宿題、あとはピアノぐらいは教えることができた。

大人、子どもに関わらず、性格・病気・障がいなどさまざまな原因で感情の起伏が激しい相手と関わるとき、私の方があまり感情が動かないためか、しばらく一緒にいると相手が落ち着くことが多い。飲み会の時には自分だけ盛り上がっていないと社会からの逸脱感を覚えたが、その喜怒哀楽の乏しさがこんな形で誰かが落ち着くことに活かせるなら、自分がここにいる社会的意義があると思えた。

でも、人に頼られてばかりいるとなんかしっくりこなくて、相手が大人だろう子どもだろうと、今度は私が相手を頼る。そうすると、「あいつは子どもだからしょうがないな、俺に(私に)(ボクに)頼ってばかりだなあ~」と、私のしたことはなかったことになっている。

でも、O先生のような包み込む強さと相手を認める気持ちが、私にとってはいちばん大切で、それを邪魔するプライドなんていらない。相手が落ち着いて、のびのびと生きているのを見ているだけでいい。私が怒るのも、ガムを床に置いて「どうぞ」って言われるぐらいのことがあったときだけでいい。

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