それは私のもの(なのか?) - 『Mine! 私達を支配する「所有」のルール』
読書の醍醐味をふたつ挙げよう。それは固定観念を覆してくれること、そして新しい知識を現実世界に当てはめられることだ。つまり、ある本を読んで「世界変わったわ」と感じ、それから現実の色々な物事について「これ……あの本に書いてたやつやん!」となる瞬間の、あの知的興奮である。
こうした知的興奮を多く感じられる本は、いわゆる「本質本」であることが多いといえる。書かれてあることの意外性や啓蒙性が高く、それでいて日常に応用しやすい本は、それだけ物事の本質を捉えていると考えられるからだ。
所有権を巡る6つのルール
最近読んだ『Mine! 私達を支配する「所有」のルール』(マイケル・ヘラー (著), ジェームズ・ザルツマン (著), 村井 章子 (翻訳))は、まさに本質本といいたくなるような、知的興奮に溢れた本だった。タイトルにあるとおり、本書は所有権にまつわる我々のルールを分類し、豊富でユニークな判例と共にわかりやすく解説してくれている。
たとえば、「購入した物件が後から幽霊屋敷だとわかったとき、買主は解約可能か?」という判例はとくに面白かった。結論からいうとこれは可能だ。というのも、大家はこの物件を幽霊屋敷ツアーに加えるなどして利益を得ており、幽霊の存在を否定できなかったからだ。判事は「法律に関する限り、問題の家は幽霊に取り憑かれていた」とし、大家に解約を認めさせた。
この話にはさらなるオチがある。訴訟のあとに幽霊屋敷はオカルトマニアから購入希望が殺到し、大家は買い手に困らなかったのだ。幽霊は家にいまし、すべて世はこともなし。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校で法学の教鞭を執る筆者によると、我々が希少資源の所有権を主張するとき──空気のようにありふれている資源の場合はそもそも所有権は主張されない──に根拠として持ち出されるルールは、たったの6種類で網羅できるという。簡単な具体例と併せて列挙すると、以下の通りだ。
早い者勝ち(ex:先着順のプラモデル)
占有は九分の勝ち(ex:お花見の場所取り)
自分が蒔いた種は自分で収穫する(ex:著書の印税収入)
私の家は私の城(ex:自分の土地から湧いた石油)
私の身体は私のもの(ex:臓器移植の自由)
家族のものだから私のもの(ex:遺産相続の権利)
これら6つのルールはどれもシンプルで、直観的で、それゆえに強力だ。だから、ルールを目にするだけで「ああそういうことね」と納得しやすい。上に書いたこと以外の具体例が瞬時に思い浮かぶ人もきっといることだろう。
しかし、『Mine!』で主張されているのは、所有権にまつわるこれらのルールが正しいということではない。むしろ逆に、「所有ということについて大方の人が持っている知識の大半は誤りである」ことを示すために本書は書かれている。本書のかなり早い段階で書かれることなのだが、そもそもこの6つのルールは往々にして競合する。実際には政府も企業も個人も、自らの利益になるように所有権ルールを場合にあわせてうまく選別し、歪曲し、調整しているのだ。
たとえば、ファッションデザイナーが苦労して考えたアイデアをカジュアルブランドがコピーして安く売る、というようなことはザラに起こっている……ファッションだけに。
所有権はルールというよりツール
そのため、本書の各章タイトルは「遅いもの勝ち」や「他人の蒔いた種を収穫する」など、先に挙げたルールをひっくり返すようなものになっている。
飛行機で席のリクライニングを倒すとき、あなたは後ろに座る人の所有権を奪い取っているのだろうか?あなたはアマプラ会員なので、友達が欲しいものをプライムデーセールで代わりに購入するのは許されるのか?あなたのNetflixアカウントで映画を視聴し、それをDiscordの画面共有機能で配信してウォッチパーティーをしても許されるのか?エトセトラ、エトセトラ……。
我々の多くはこうしたことを実に平然とやってのけ、大した負い目を感じたりはしない。所有権とは白黒をつける明確な線引きであると考えられがちだが、実際はそうではないのだ。我々は所有権のグレーゾーンをうまく利用しながら社会を営んでおり、白黒をつけるのが難しかったり、白黒をつけるとかえって都合が悪いことも多々ある。もちろん、グレーゾーンからこっそりと暴利を貪る連中も一方では常に存在するのだが。
所有権はルールというよりツールであり、うまく使えば社会に広く利益をもたらすこともできる。少数に利益が誘導されているケースのほうが圧倒的に多いとはいえ、所有権というツールをうまく設計したことによる社会的な成功例や改善案も本書には色々と掲載されている。人間は愚かだと断じる前に、この本を読んでみてもいいはずだ。
そのキャプチャは誰のもの?
先に述べたように『Mine!』は本質本なので、ここで書かれていることを現実の時事問題に当てはめてみることができる。
たとえば、テレビ朝日の番組『クレバーなクレーマー』第2回で話題となった、テレビ番組のキャプチャ画像問題。番組の所有権≒著作権は制作者であるテレビ局にあるので、その番組の一部分を切り取ってSNSにアップロードしバズを狙うのは「自己肯定感の最下層」とでもいうような恥ずべき行為であり、番組に入るはずだった利益を損なう違法行為でもあるというのが、出演者たちの大まかな主張だ。この問題の詳細と論点は、以下の記事によくまとめられている。
第一の利害関係者はテレビ局側の人間、すなわちディレクターやプロデューサー、そして出演して毒舌を飛ばす芸人たちだ。自分たちは面白い番組を作るために汗水を流した。制作コストも支払っている。キャプチャ画像などを通じて番組の内容が広くネタバレするなら、その分の報酬も得られるべきであると彼らは主張する。
ここで依拠する所有権ルールはほぼ間違いなく、「3.自分が蒔いた種は自分のもの」だろう。件の番組内でキャプチャ画像投稿を違法行為と揶揄したり、せめてTverのリンクを添付してほしいと訴えているのは、努力に対価を求めるこのルールに基づいているといえる。骨を折って苦労したぶんの報酬を得るべきだ、私は報われるに値するという感覚は、肉体労働か知的労働かを問わず発生する素朴なものだ。
その一方で、第二の利害関係者であるキャプチャ画像投稿アカウント……とくに、投稿から得たインプレッションで金を稼ぐ類のアカウントの持ち主はどう考えるだろうか?自分の行いをどう正当化するだろうか?
意識的か無意識的かはともかく、彼らの行動には「1.早い者勝ち」または「2.占有は九分の勝ち」のルールが当てはめられるのではないだろうか。つまり、先んじて番組のキャプチャを撮ったのは自分であり、それを投稿して広く知らしめたのも自分である。そこから金銭や承認といった見返りを得るのは、褒められないまでも不当な行いではない。そういう主張だ。こうした人(上品な言い方をすればインフルエンサーだ)にとっては、キャプチャ画像の投稿はお花見の場所取りやセール品をあらかじめカゴに入れておく行為とそう変わらないのかもしれない。
キャプチャ投稿を面白がって拡散するSNSユーザーを第三の利害関係者として、ユーザーのエンゲージメントから利益を得るプラットフォーマーを第四の利害関係者として含めると、この問題はさらにややこしくなる。ただ、所有権というテーマからはズレていくのでここでは触れない。
重要なのは、対立する双方に所有権の根拠となるルールがあり得るということだ。
そのスクショは誰のもの?
テレビ番組のキャプチャ投稿問題に似たケースに、ゲームのスクリーンショット問題がある。以下は実際に俺が見たことのある話だ。
まず、あるプレイヤーがあるゲームのスクリーンショットを投稿した。そのゲームは主人公に様々なコスチュームが着せることができ、ムービーにも反映される。プレイヤーはこの仕様を使って、ユーモラスなスクリーンショットを撮影したのだ。このスクショ投稿でリポストやいいねを稼いで承認欲求が満たされていたのもつかの間、プレイヤーはあることに気がついた。
そのゲームの公式にあたるアカウントが、スクリーンショットをまるまるコピーして自分のアカウントで投稿し直していたのだ。公式アカウントのほうがフォロワーが多く、投稿を見る人も多いため、もとの投稿よりもそちらのほうが注目されるという事態になった。プレイヤーは憤り、抗議の声を上げた……。
ゲーマーであれば他人事ではないこの事件も、やはり双方にもっともらしい言い分がある。
プレイヤーにとってみれば、最初にスクショを撮影したのは他ならぬ自分だ。しかも、バズを掠め取られたせいでシャッターチャンスを探す努力を踏みにじられたように感じる。まるで、盗作されたかのような。これは「1.早い者勝ち」と「3.自分の蒔いた種は自分で収穫する」というルールから来る感覚だろう。
しかしゲーム会社側からすると、そもそもスクショの被写体であるゲームを作ったのは自分たちなのだから、これは盗作などにはあたらない。ユーザーの撮影したスクショを自由にする権利も自分たちにある。これはこれで「3.自分の蒔いた種は自分で収穫する」に当てはまるだろうし、自分たちの制作物の延長にあるものにも所有権が及ぶという考えは「4.私の家は私の城」にも近い。
もしサービス利用規約に「本ゲームのスクリーンショットの利用・複製・改変の権利は甲に帰属し云々」などと書かれていれば、ゲーム会社側に分がありそうだ。その一方で、最近のゲームには驚くほど多機能なフォトモードがしばしば搭載されている。アングル、画角、輝度、彩度、被写界深度などに至るまでプレイヤー側で加工できる幅はかなり広く、元のゲームが一体なにかわからないほど工夫が凝らされているスクリーンショットも今どき珍しくない。
このようにプレイヤー側の創作の余地が十分に大きい場合でも、スクショの所有権はすべてゲーム会社にあるといえるだろうか?しかし「創作の余地が十分に大きい」と認めるのは一体誰なのか?こうしたグレーゾーンを裁判所にいちいち決めてもらうのは、ひどく手間がかかるはずだ。所有権を巡る問題が厄介な理由のひとつは参考判例が存在しないことであり、また、判例が存在しないこと自体が大きな参考にもなっている。
ただ、このケースでいえば、公式アカウントがスクショをコピーして投稿する際にプレイヤーのクレジットを記載するだけでも揉め事はある程度避けられたかもしれない。テレビ番組のキャプチャ投稿にTverのリンクを貼るのも、たぶん同じような効果があるのだろう。
戦略的曖昧さ
これらの一見しょうもないすったもんだから得られる教訓はなんだろうか?
それはとりもなおさず、所有権ルールは曖昧であるということだ。6つの所有権ルールは分類できるからといってどれかひとつに定まって適用されるわけではなく、常に並立し競合しあっている。だから、どの立場にも一理あるように見える。もしどちらかが一方的に正しいように見えるなら、それはそちらの意見に与したほうがあなたの利益が増えるから、あるいはそちらのほうが社会的に強い立場にあるから……かもしれない。
結局のところ、所有権とはソーシャルエンジニアリングにおける一つの選択にすぎない。所有権は発見された事実ではなく、到達した結論なのだと『Mine!』の筆者は書く。
所有権に限った話ではないが、我々の多くは権利や法律といったものをなんだか自然法則のように絶対視しがちだし、スイッチのオン/オフのように二分できるものと考えがちだ。けれど実のところ、権利は絶え間ない努力により勝ち取られたものであり、法律は社会を支えるために人工的に設計されたものだ。そしてルールには常に、曖昧な隙間がある。あえてその隙間を利用することを、『Mine!』では「戦略的曖昧さ」と呼ぶ。
我々は個人レベルでも戦略的曖昧さを利用しているが、企業レベルではもっとうまくやってのける。
たとえば、ストリーミングサービスのアカウント使い回しを企業があまり本腰を入れて取り締まらないのは、それが不可能だからではない。今は昔、ゼロ年代初頭にNapsterという音楽ファイル共有サイトが隆盛を誇ったことがあるけれど、最終的に利用者はアメリカレコード協会に損害賠償訴訟を起こされてケツの毛までむしられ、Napster自身も敗訴した。このことからも、コンテンツのタダ乗りを取り締まるのが決して不可能ではないとわかる。
それにもかかわらず、今のストリーミングサービスの多くはアカウント使い回しを本気で取り締まろうとせずに曖昧な態度のままだ。あえてそうすることでサービスの好感度が高まり、将来的なユーザーが増えることを期待しているからである。つまり、単なる損得勘定の結果にすぎない。
なんやかんやと言いながらもテレビ局がキャプチャ投稿アカウントを片っ端から排除しないのも、両者がある種の共犯関係を持つからだし、全面的な排除はコストに見合わないと今のところ判断しているからだ。これらの企業は所有権の在り処を厳密に問わないことで直接的/間接的な利益を得ている。これが戦略的曖昧さだ。
まあ、最近のNetflixの考えは違うようだが。
サイバーパンクのパンク抜き
いち消費者の目線からすれば、戦略的曖昧さのおかげでアカウント使い回しが怒られないのは嬉しいことかもしれない。しかしそれだけでは話がうますぎる。名だたる大企業はいわば凄腕の手品師のようなものであり、オーディエンスの目線が右手に引きつけられているとき、トリックは左手に仕込まれているのだ。
このデジタル時代における手品師の左手とは、戦略的曖昧さによって所有権を錯覚させることにある。たとえば、Kindleに入っている本もSpotifyの楽曲ライブラリも厳密にはあなたのものではない。あるバンドのメンバーが問題行為を起こしたというだけで、その楽曲がストリーミング配信から消えることもある。テック企業同士の買収騒動の結果、こないだまで動いていたスマートデバイスがいきなり漬物石と化すこともある。Amazonはあろうことか、ジョージ・オーウェルの『1984年』の配信を停止したことさえある。
すなわち、あなたが自腹を切って所有していると思っているモノは実のところきわめて限定的な使用許諾にすぎない。AmazonやApple、GoogleやSpotifyは自分の都合に合わせてあなたを締め出すことも十分に可能であり、現実にそれは起こっている。
しかし難儀なことに、俺を含むほとんどの人は6つの本能的ルールで所有権を捉えているせいでこうしたデジタルな戦略的曖昧さを認識できず、おかげで反抗もままならない。
我々が生きているのは、サイバーパンクのパンク抜きの時代なのだ。
ちょっとした読書感想文のつもりが、なんだかすごく長ったらしくなってしまった。いいオチも思いつかない。ええと、つまり……要するに……『Mine!』はこれだけ語りたくなるくらいインパクトのある本質本であるということだ。
本当に面白かったので、興味が湧いたら読んでみてほしい。