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1兆度の愛に焼かれた巨人 - 『シン・ウルトラマン』

考えあぐねている。

判断に困っている。

良いのか、悪いのか。

面白いのか、つまらないのか。

公開初日に『シン・ウルトラマン』を見てからもう2週間近くも経つのに、俺の脳味噌は混乱し続けたままだ。何故に?この映画の評価の難しさ故に。

『シン・ウルトラマン』は奇妙な映画だ。

同じ作り手によるものとは思えないような長所と短所が不可解にも並存し、そのどちらも無視できない強烈な印象を放っている。手放しに褒めようとすれば短所が邪魔をしてくるし、ボロクソに非難するには長所が眩しすぎる。だから、加点法を取れば「100点満点中……1億点!!!!!」になってしまうし、減点法に則れば「ウルトラマンオタククイズ会場(激寒)」になってしまう。どちらかひとつだけ取り上げて本作を批評するのはアンフェアだ。

最終的な評価を考えつつ、シン・ウルトラマンの良かった点と悪かった点を述べていきたい。

※この先ではシン・ウルトラマンの完全なネタバレを行う。このまま読み進めても一向に構わないが、覚悟を決めることだ。

現実と虚構の黄金比

2016年の『シン・ゴジラ』が大ヒットしたのは、”現実ニッポン虚構ゴジラというキャッチコピー通りの映画だったからだ。のろまな政府、忖度まみれの官僚主義、能天気な国民等々といった日本の現実を──良心とエンタメに基づく若干の脚色はあるにせよ──庵野印の冴えわたるカット割と脚本でもって克明に描いたことが、巨大不明生物と戦い、現場の力でそれを打ち破るという壮大な虚構に別次元の魅力を与えてくれた。

そういえば、『シン・ゴジラ』の海外における一般受けはあまりよろしくないという与太話を聞いたことがある。細かすぎるニュアンスを翻訳しきれず、オタクでなければ何が面白いのかわからなかったのだという。そういう意味において、『シン・ゴジラ』はやはり正しく国民的映画だといえる。

『シン・ウルトラマン』では、こうした現実と虚構のせめぎあいがさらに強調されている。ネロンガ・ガボラとウルトラマンが戦う第一幕で”いつものウルトラマン”を意識させることで、ザラブ・メフィラスといった外星人との闘いを政治劇を交えて描く第二幕以降のインパクトが強まっているのだ。

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敗戦国にして禍威獣出現国という、国連管理下にないのが不思議なほどに苦しい立場の日本が、人智を超えた力を持つ外星人とのコネで外交上のアドバンテージを得ようとするのは、当然といえば当然かもしれない。総理大臣が外星人と握手して記念撮影する光景はシュールであるが、同時に確かな説得力を感じてしまう。もしそう・・なったら、きっとそう・・するのだろう、と。

人類を資源とみなし、その独占管理を目論む外星人メフィラスの暗躍が描かれる第三幕。オーバーテクノロジーを供与する見返りに、己をヒトの上位概念、すなわち神として置くよう為政者たちを篭絡するメフィラスの姿は、アーサー・C・クラークの古典SF『幼年期の終り』に登場するオーバーロードの空想特撮的解釈のようだ。

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初代『ウルトラマン』においてメフィラス星人の野望はある少年の自由意志の強さによって阻まれるのだが、『シン・ウルトラマン』に登場する為政者たちは打算の上であっさりと、あまりにもあっけなく万物の霊長としての立場を明け渡してしまう。矜持と主体性を捨て、無力であることを内面化した”現実ニッポン”の姿が情け容赦なく浮き彫りにされるシーンだ。SFとは現在と未来の両方に対する洞察だが、原作から50年以上経った今の人間社会は相当にまずいものになっているのかもしれない。

”ウルトラマンが現実に現れたらどうなる?”という疑問は、ほとんど稚気じみて聞こえる。だが『シン・ウルトラマン』はそれに真正面からぶつかり、極めて解像度の高いアンサーを見せてくれているのだ。

ウルトラ禅問答

庵野秀明の作るSFでは、”進化の果てに生物は究極の個へと収束する”という考えがしばしば現れる。『エヴァンゲリオン』において、永久機関を持つ使徒は単独で登場するし、他者との壁をなくして一つになることを人類の補完と呼ぶ。また、『シン・ゴジラ』では、地球上で最も進化した生物であるゴジラは生殖や死という概念を超越しつつあることが示唆されている。

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冬月「第4の使徒、大した自己復元能力だな」
ゲンドウ「単独で完結している純完全生物だ、当然だよ」

- 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』より

『シン・ウルトラマン』では、人類と外星人のスケールや感覚の違いを通じて、この哲学が表現される。

生身で恒星間を移動し悠久の時を生きる外星人にとって、人類は取るに足らない存在だ。進化の幼年期を過ごす原生生物、あるいは70億を超えてなお殖え続けるリソースに過ぎない。ウルトラマンの同族である光の星の使者ゾーフィでさえ、外星人の手にかかれば危険な兵器になりうる人類を太陽系ごと滅ぼすことをまったく躊躇わない。それどころか、人類の滅亡は宇宙規模では何の影響ももたらさないとさえ言い放つ。ザラブやメフィラスに集団への帰属を示唆する”星人”が付かないこと、光の”国”ではなく光の”星”であること、助け合わずに人は生きていけないという事実に素朴な興味を持つウルトラマンの姿からも、外星人には群れ、社会、国家、互助という人間にとって当たり前の概念がほとんど存在しないことが伺える。

山本耕史演じるメフィラスは、人間的で胡散臭い魅力にあふれている。だがその実、彼のエンジョイの仕方は動物園のふれあいコーナーのそれに近く、まるでレジャー気分だ。それに対して、人類と外星人の狭間に立ち、光の星の使者としての領分を踏み越えてでも人類を本気で理解しようとするウルトラマンの在り方は異端であり、愚直であり、だからこそ尊い。

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ウルトラマンとメフィラスのスタンスの違いは、二人の服装からも見て取れる。根っからの外星人であるメフィラスが全身黒いスーツに身を包んでいる一方で、ウルトラマン=神永の服は上半身と下半身で白黒になっている。白(人類)と黒(外星人)、神永新二はその両方の属性を持つ存在であるということだ。ちなみに、ザラブに誘拐される以前の神永は黒いジャケットを着ているが、バディである浅見弘子に助けられて以来、最後までほとんど変わらず白シャツと黒スラックスの姿のままである。ウルトラマンがその在り方を最初から確立していたわけではないこと、浅見を始めとした禍特対の面々が彼に影響を与えたことの暗喩とも考えられる描写だ。

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バディの意味よく分からないマン

原作では人類の発明で倒されたゼットンを、今作ではウルトラマンと人類による決死の共同作戦で攻略するという改変は、メタ的に見れば『シン・ゴジラ』と同じ展開を避けるという脚本上の配慮だが、”人類と共にあるウルトラマン”という今作のテーマにもうまく合致している。

他者のために己の命を進んで投げ出した神永新二の姿に、ウルトラマンは孤独な個に収斂する以外の進化の可能性を垣間見たのかもしれない。

重愛渋滞中

ウルトラマンの現代的なリメイクとして、『シン・ウルトラマン』の思想性やリアリティは及第点だといえる。しかし、冒頭で述べた通り、本作には無視できない短所が少なからず存在するのも事実だ。

その中でも、テンポの悪さやスピード感のなさは真っ先に目につく。『シン・ウルトラマン』は映画における伝統的な三幕構成を取っておらず、またどの禍威獣・外星人との戦いも同じ熱量とこだわりで描き切ろうとしているせいで、一つの映画としてのまとまりが悪い。その結果、連続ドラマから何話かピックアップして繋げたオムニバス版のような様相を呈している。また、ダイジェストやカットバックを用いた緩急も(あの最高によく出来たプロローグを除いて)ないため、劇中での時間の流れがまるで分からない。ウルトラマンが人類大好きマンになり、禍特対がウルトラマン大好きメンになるだけの時間が十分に経過しているように感じられないまま物語が忙しなく終局へと突入するせいで、エモの高まりが追いつかない。そうして、観客を置いてきぼりにしてしまっているのだ。

そんな状態で観るのだから半ば当然ではあるが、本作のラストを締めくくる第四幕、ゼットンとの死闘はびっくりするほどカタルシスに欠けたものとなっている。観客目線ではウルトラマンが戦うところは都合四回しか見られていないので彼がゼットンに負けてしまう事実への絶望感は希薄だし、人類と協力してその絶望を打ち破る爽快感も貧弱だ。禍特対メンバーがVRゴーグルを付けて英語を喋っていたらなんやかんやで逆転の一手が完成、という画的な地味さも相まって、第四幕まで来ても物語のボルテージはまるで上がらない。『シン・ゴジラ』で、ヤシオリ作戦の怒涛の展開で凄まじいカタルシスを味わわせてくれたのと同じ制作陣だとはにわかには信じがたい体たらくだ。

結果論に過ぎないが、ザラブとメフィラスのパートの間にダイジェストで何体か禍威獣を倒すシーンを挟むだけでも全体のテンポや人間関係の理解度はずいぶん改善されたのではないかと思う。あるいは、前述のVRゴーグルの場面で”ヤシマ作戦のテーマ”、あるいは”デンデンデンデンドンドン”こと『EM20』を流すだけでもクライマックスは相当に盛り上がったのではないだろうか、と。

全曲デンデンデンデンドンドンするアルバムもある

もちろん、あの天才揃いのクリエイターたちがその選択肢を考えなかったはずがない。考えた上で躊躇なく排除したのは、それがあまりにも安易で、かつリスペクトを欠く行為だからだ。神聖にして侵すべからざる原典をダイジェストにして不可逆圧縮するなど、彼らには到底受け入れられなかった──あるいは、プロローグのそれが限界だったのかもしれない。そして、”ヤシマ作戦のテーマ”をひとたび流してしまえば、それは望むと望まざるとに関わらず『エヴァンゲリオン』の色彩を持つ。好きな特撮は”圧倒的にウルトラマン”と言って熱狂的な愛を捧げる庵野秀明の強火オタクっぷりを考えると、己のルーツを逆行するような冒涜的行為など死んでもやりたくなかったであろうことは想像に難くない。

重すぎる愛に足を取られ、『シン・ウルトラマン』の足取りは鈍く平坦なものとなってしまっている。エンタメ作品として、これは純粋なマイナスポイントだ。

模倣者は回る

この他にも、観ていて集中を削がれる要素は色々と存在する。例えば、偏執的ともいえるウルトラマンネタの詰め込み具合だ。ゾフィーじゃなくゾーフィだとか、パゴス⇒ネロンガ⇒ガボラがコンパチキャラだとか、初登場時のウルトラマンの顔はAタイプに似せている……といった小ネタの類は、知っていても知らなくても面白さに直接影響しないので別に構わない。

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多くのレビューで非難されている、『何かにつけて尻を叩く浅見』や『巨大化したところをローアングルで撮られる浅見』といったセクハラ描写も──相応に不愉快で時代錯誤ではあるが──それが映像をつまらなくしているわけではないので、俺としては正直どうでもいい。

そういう意味では、画面のほとんどをオブジェクトで隠して遠近感を強調するといったいわゆる”実相寺アングル”を多用しすぎているほうが気になる。良くも悪くも癖の強いアングルなので、もう少しメリハリを利かせるべきだったと思う。単純に観ていて疲れるし、実相寺アングル以外にも多様なカメラワークができる庵野作品の持ち味を殺してしまっているからだ。

けれど、飛び人形を使っていた古の時代特有の”ウルトラマンが飛行時のポーズのままグルグル回る”や”飛行時のポーズのまま足から着陸する”といった半分トンチキな画を、わざわざこんなハイクオリティのCGで再現する必要はあったのか?にせウルトラマンにチョップして思わず痛がるウルトラマンは果たして映さなければならないものだったのか?本家円谷ウルトラマンシリーズがとっくの昔に捨てて顧みないような小ネタを改めて拾い上げるという行為のオタクっぷりにニヤニヤしていないか?その粘着質なこだわりが、真実と正義と美の化身を描くという本作の挑戦に本当に貢献している・・・・・・・・・といえるのか?

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顔に使徒っぽさを感じるガボラ

『シン・ウルトラマン』の監督を務めた樋口真嗣曰く、本作では初代ウルトラマンファンに向けたリップサービスはほとんどやっていない。むしろ、オリジナルが好きだからこそ、そこから離れようとしたとのことだ。悪ノリに片足を突っ込んだようなオマージュの数々を披露していることすら自覚していないというのなら、いささか愛がキマりすぎだ。

……ここでもまた、愛の重さが邪魔をしている。行き過ぎた引用と模倣が、リアリティ重視の流れに掉を差してしまっているのだ。

愛と敬意と覚悟をキメろ

『シン・ゴジラ』を好きだという人が目の前にいたとする。その人はそれ以外に庵野秀明や樋口真嗣の、ガイナックスやカラーの映像作品を体験したことがなく、またアニメや特撮に対してさしたる興味関心もない。ただ流行っている映画の一つとして『シン・ゴジラ』を見て、とても楽しかったという人。そういう人に、俺はおいそれと『シン・ウルトラマン』を勧められない。もしかしたら、ひどくがっかりさせてしまうかもしれないから。

けれど、そうでないならば。前提知識がそれなりにあり、オタクの悪ノリを許容でき、衒学的な雰囲気にのめり込めて、登場人物の些細な所作や外見からその背景をたくましく妄想できる人ならば。そういう人にとって、この映画はオールタイムベストにもなりうる。そう、加点法では最強なのだ。

エンタメとは観客が求めるものを見せてナンボだが、『シン・ウルトラマン』はその逆で、観客にこそ求めている。特撮文化に対する愛と、敬意と、覚悟を求めているのだ。この娯楽飽和の時代に、こんなに攻めた姿勢を崩さなかったのも、ひとえに愛の為せる業ということかもしれない。

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さて、『シン・ウルトラマン』に対する俺の最終的な評価をいよいよ述べたいと思う。

25話+総集編の連続ドラマでやれ。

以上だ。

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