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犬は犬小屋に帰る

マリナの犬を引き取って1か月が過ぎた。マリナに似て馬鹿な犬。

店にいる女の子はそれぞれの理由で店にいた。わたしは整形の借金を完済したらスッパリこの世界から足を洗うつもりだ。もうすぐゴールが見える。価値観や金銭感覚は一周して元に戻った。いろんなものを失って、2年前とは別人になったこの顔だけが残った。良かったことも、後悔することも、色々あるけどすべて人生経験だと納得して飲み込んでいる。
でもマリナはそうはいかなかった。ハマり込んだホストにハマって、ハマって、ハマり続けた結果そいつの赤ちゃんを身ごもった。そして精神薬をたくさん飲んで、駅前の賃貸マンションの屋上から飛んでしまった。たぶん衝動的な行動で、遺書はなかった。

紆余曲折あって、マリナの部屋で飼われていたこの犬をわたしが引き取った。

最初は、この犬をどう呼べばいいかわからなかった。名前をマリナの口から聞いたことがなかったのだ。だからといって新しく名付けるのも気が引ける。それで、マリナのインスタをどこまでも遡って犬の投稿を探した。
見つけた。

「ポメ太」

呼ぶと、犬はこちらを向いた。舌をダラリと出して相変わらず馬鹿な顔だが、その目には確かな光があった。
ポメラニアンだから、ポメ太。ネーミングセンスのなさに笑いが込み上げてきた。

「ポメ、もう寝るよ」
結局、ぽめたの3文字すら呼ぶのが面倒なわたしのせいでこの犬は今や「ポメ」という愛称を授かった。ポメラニアンのポメ。猫に「ネコ」って名前をつけるようなものか。名前にアイデンティティのない犬。
ケージを開けると、ポメが小走りで寄ってくる。そのままケージの中に入るかと思ったらわたしの膝下にじゃれついてくる。
「わたしじゃなくて、ハウス、ポメ、ハウス」
ポメの脇を抱えてケージに向かせ直すと、素直に入った。中のクッションの上ですぐに丸くなって目を閉じた。
わたしは部屋の明かりを間接照明に替えて、寝る前のストレッチをはじめた。

それにしてもマリナに似て単純で馬鹿な犬だ。主人が変わったことに気づいているんだろうか。
きっと気づいているだろう。
だってポメには、マリナしかいなかったのだから。
マリナのまわりにはたくさんの人がいた。例のホストがいた。遠方に実家の家族もいた。職場にはわたしたちがいた。
でもポメには、たったひとり、マリナしかいなかったのだ。
「おまえ、わたしがいなくなったらどうする?」
ポツリとつぶやくと、ポメは小さな耳を少し動かした。
「いなくならないよ。マリナと違って」

過ごしやすい気温でカラッと晴れた日の夕方、ポメを初めて散歩へ連れ出した。
わたしは犬を飼ったことがないが、この犬に限っては散歩をさせたほうが健康に良い気がしていた。それに、犬というのは散歩をさせる動物なのだというよくわからない固定観念があった。マリナがポメを散歩させていたかは知らないが。
ポメは臆せずにどんどん歩いた。まるで自分の散歩コースがあるかのように。小さな犬の、小さな歩幅でも、軽やかな足取りでどんどん前に進んだ。わたしはそれに付き添って歩いた。この歩きぶりだと、生前マリナはポメを定期的に散歩させていたのかもしれない。散歩が好きなのだろうか。なんだか、逆にポメがわたしをリードで繋いで散歩させてるみたいだ。

考え事をしながら歩いていると、いつの間にか最寄りの隣駅の近くまできていた。ノンストップで歩き続けてさすがに足が疲れていることに気づく。ポメは疲れていないのだろうか。
ふと、ポメが足を止めた。そしてその場にダラリと座り込んでしまった。
「帰宅拒否犬ってやつか」
やはり急に疲れがきたのか。ポメ、そろそろ帰るよ、と声をかけても立ち上がろうとしない。少し待ってみてもダメそうだ。仕方ない、抱きかかえて強制的に帰ることにする。


わたしはしゃがみこんで、
ポメに手を伸ばし、
そのとき初めて気がついた。

「……馬鹿な犬だなあ」

座り込んだポメの目線の先にあったのは、
「ポメ太」だった頃の自分とマリナが暮らしていたあの賃貸マンション。
屋上からマリナが飛んだ、駅前の、賃貸マンション。


「…わかるの?」
ポメは答えない。でも、わかるんだろう。あのマンションだと。
犬が人間の言葉を理解しているとしたら、ポメはどんな人間の会話を聞いてきたのだろう。
「マリナが死んだ」
「マンションの屋上から飛び降りて死んだ」
「この犬はどうするの」
「誰か引き取り手はいないの」
「保健所に連れていく?」
ポメは、人間の言葉をある程度理解していたのだろう。きっと苦しかっただろう。その証拠に、今ここに、マリナの幻影を求めてあのマンションを見つめている。

「ごめん」
なんとなくつぶやいた。ごめん。ごめんね。わたしがマリナじゃなくて。本当にごめんね。
涙が少し出た。

夕暮れが近づいてきた頃、ポメを抱えて帰宅することにした。
大人しく抱きかかえられていたが、わたしが疲れたので地面に下ろすとまた歩き出した。
足取りは、わたしたちの家にまっすぐ向かっている。


「ポメ、もう寝るよ」
ケージを開けると、ポメが小走りで寄ってくる。そのままケージの中に入るかと思ったらわたしの膝下にじゃれついてくる。
「わたしじゃなくて、ハウス、ポメ、ハウス」
ポメの脇を抱えてケージに向かせ直すと、素直に入った。中のクッションの上ですぐに丸くなって目を閉じた。

「ここがあんたの帰る犬小屋だよ」

わたしは、絶対にポメを幸せにしようと思う。


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