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檻(おり)

NEUノイsolution公開サイトでは「ネオマインド」という独自概念がコンセプトの中核にあります。
生まれてから成長するまでの間に、私たちは周囲の様々な価値観、慣習、文化、教育等々に影響され、それぞれが自ら選択した価値観ではなく、環境から得た制限や、善悪、正違、あるべき姿勢、その他諸々の価値観を教えられ、それらの檻の中に閉じ込められて生きているという事がごく当たり前になっています。

 ところが個々それぞれには、その自覚も認識もほとんど明確に意識されず、無意識にその枠組み(檻)の中での情動、思考、選択、行動を続けるという日常を重ねています。

 それでも人生を楽しみ、幸福感に満たされていれは何の問題もありません。が、しかし、往々にしてそのように、大人たちから教え込まれた価値観、世界観が、自分にフィットできなくて、葛藤や妥協の中でストレスを抱えながら生きている人たちも多いように思われます。 

眼差しの牢獄   

知らず知らずのうちに脳に埋め込まれた「こうあるべき」によって、他者からの批判を避けたいという欲求が生まれ、他者の「眼差し」への関心が強くなります。

「眼差しの牢獄」とはこうして自分を閉じ込め、防衛に専念するために必然的に創られるものです。

「ネオマインド」とは、こうして囚われた意識の檻(牢獄)から自由になるマインドを言い表しています。 

人は何らかの「檻」という(判断基準となる)枠組みの中で、脳細胞が反応し、勝手にショートカットルートを創り出しながら、情動、思考、行動を生み出すので(経験的学習)、枠組みがなければ通常の日常行動への瞬時の決断ができません。 

自分がどのような心の「檻」(世界・枠組み)の中で、どのようなショートカットに操られて生きてきたかを解明した上で、自分にフィットした居心地の良い空間としてのオアシス的な心の枠組み、ショートカットの世界を創り、その中で生きることを可能にするものです。 

いずれにせよ私たちは何かを選び取らなければなりません

自ら好んで選択した記憶のない無意識に刻まれた、ルールや慣習に従うロボットのように「考える」という行為に蓋をしたまま成長すると、どうしても自己の深層にある自然としての人間性との間に矛盾をきたし、葛藤することがあります。 

反面、自ら選択して構築した枠組みという檻は他者の出入りが自由ながら、隠れ家的心の「巣」となり得るものです。

但し、この出入り自由な空間世界にも防御柵は施され、その世界を否定し、壊そうとする人の侵入を防ぐ役割をします。

しかし、自然の多様性と同様に、相手の異なる世界を尊重するとともに、自己の世界を確立し、他から侵されない、尊重を促すための柵ともなり得ます。

これがいわゆる個々の自己の「本質」というものに固定化されてゆきます。 

「実存は本質に先立つ」という言葉があるように、私たちは意識的に選択しようがしまいが、存在した時から本質に向かって、何かを選び取りながら枠(柵)を作っているといえます。

このように、各自がそれぞれの世界を大切に、居心地よい人生の枠づくりを核とした自己の確立ができれば、「眼差しの牢獄」はいつの間にか消え去り、他者の眼差しから解放されていることでしょう。 

と同時にネガティブに回るエネルギーは節約され心のSDGsという結果が導き出されます。当然のように、外側に「溢れる」エネルギーが表出、創造、配慮といった良心的行動へとつながるのです。 

また、新しい風を吹き込むための隙間は拡がり、常に新鮮なエネルギーやアイデアのトリガーとなるシンクロ状況をキャッチできるようになるばかりか、好奇心の増幅アンテナ感度まで高まることになるでしょう。

『夜と霧』の作者ヴィクトール・フランクルの名言に、「 あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である」という言葉があります。「そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。我々は人生に問われている立場であり我々が人生の答えを出さなければならないのです。」

「 幸せは、目標ではないし目標であってもならない。そもそも目標であることもできません。幸せとは結果にすぎないのです。」

ヴィクトール・フランクル - Wikipedia  

人間はまず先に実存し、したがって、自分の本質というのはそのあとで、自分自身でつくるものだ、というのがサルトルの考え方です。「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」、これが「実存主義の第一原理」です。
そしてそこから、みずから主体的に生きるという「主体性」の概念が出てきます。みずからをつくるということは、未来に向かってみずからを投げ出すこと、すなわち、みずからかくあろうと「投企」することだ、と。
この耳慣れない「投企」という概念は、フランス語の「プロジェ」(projet)です。
普通は「計画」という意味ですが、「前へ(プロ)/投げる(ジェ)」というニュアンスからわかるように、哲学用語としてそう訳されているのです。
「主体性」や「投企」という概念、そこから何かを「選択」する「自由」という概念、あるいは自分で選ぶということに伴う「責任」、そのことへの「不安」、また自分ひとりで決めることの「孤独」と、一連の概念がずっとつながって、そこに実存主義という考え方の基本的図式が浮かび上がってきます。

■『NHK100分de名著 サルトル 実存主義とは何か』より

 

「投企」とは

自己の存在の可能性を未来に向かって企てることをいみしています。
ここでちょっと話が飛びますが、

仏教における「縁起」の教えは、実際には固定された実体が存在しないという考え方を強調しています。この世界のすべてのものは、一瞬一瞬変化し続ける複合的な存在であり、それらは互いに関連し合っています。この理解は、物事が独立した実体として存在するのではなく、条件や状況によって生じ、変化し続けるという見方を示しています。

「縁起」によれば、物事は次のような特性を持っています:

  • 無常無常):すべてのものは変化し続ける。

  • 無我無我):個々の存在には固有の自己はない。⇒実体はない

  • 相互依存相互依存):すべての現象は他の要素との関係によって成立している。

この観点から、「これ」と特定できる実体は存在せず、すべては瞬間的な状態であり、常に変化していると言えます。したがって、実体という概念は、この縁起の教えにおいては否定されることになります。この理解は、私たちが物事を見る方法や、世界との関わり方に深い影響を与えるものです。 

釈迦の教義における「縁起」とビクトール・フランクルの実存主義との間には、ある種のリンクが見られます。両者ともに、個々の存在が固定された実態を持たず、変化し続けるという観点を共有しています。

フランクルの実存主義は、人間が自らの生き方を決定する存在であり、その選択と責任において自由であると強調します。彼は、人生の意味を見出すことが重要であるとし、その意味は個人の内面的な体験や外部の状況によって変化するものだと考えました。これは、「縁起」の教えが示す相互依存と変化の原則と通じるものがあります。

一方で、「縁起」は、すべての存在が互いに依存し合い、独立した実態を持たないという仏教の教えです。この世界のすべてのものは、条件や状況によって生じ、変化し続けるとされています。これは、フランクルが言う「意味の探求」が個々の状況に応じて変わるという考え方とも一致しています。

したがって、両者は異なる文脈で語られているものの、実態が固定されていないという基本的な理解においてはリンクしていると言えるでしょう。人間の存在とは、常に変化し、成長し、新たな意味を見出す過程であるという点で、両者は共鳴しています。 

レスポンスの価値

「自分が生きる姿勢を自分が選択できる」
それが人間の特権であるとする以上のような実存主義(Existereギリシャ語)は、

Ex(外に)sistere(立つ)という意味から、世界に向かって自らを差し出す⇒表出する、創造することを示しています。

創り上げられた自分の歴史も永遠に保管されるため(パターンとして)、保管されても価値ある行動が重要となってきます。

レスポンスはそういった意味で最も重要な行動パターンと言えるでしょう。
外側の状況は変えることはできませんが、自分がどう対処するか、どう関わるか、自分の態度、行動(選択、決断)で如何様にも変えることができるのです。

眼差しの牢獄では自己への執着が強く、そうしたことにエネルギーを使い果たすと欠乏から抜け出せなくなり、他者の称賛や承認がどうしても必要となってしまうのです。

これでは 「溢れ出るもの」に期待することなどできるはずがありません。

「溢れ出るもの」があってこそ価値あるレスポンスも可能となるでしょう。

 

フランクルは言います。

「私たちが人生から何を期待できるか、というのが決して重要なのではなく、むしろ、人生が私たちからなにを期待しているかが重要だということなのです。」

つまり人生の意味を安易に問うのはやめて、自分自身が人生から常に問われているのだと自覚しよう、ということです。 

人生から何かを期待するという態度は、自分が宇宙の中心に鎮座する天動説の立場をとっているようなもの、相ではなく大要の周囲を回る惑星のよに、意味を中心にして自分の生き方をとらえなおすはっそうの転換が必要なのです。

人間は積極的に自分から何かを求めていかなければ向こうから何か「棚からぼた餅」みたいに幸運が落ちてくるわけじゃなく自分の方から人生を創っていかなければならない、自分が中心にいるのではなく自ら「何ができるか?」が重要なのです。

「問いかけに気づき、どう答える?」です

意味を受信する器官「アンテナ」を立てる。

意味にかなっていることが良心的(他者との関係でフェアーである)であり、そのことが「誠意をもって対処する」という態度を生み出します。

それが自分以外ものに対する眼差しであり、配慮で、それがみたされているとき良心的であるといえるのです。

参考:NHK「心の時代・絶望に突き落とされても」
こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK 

選び取らなかった選択、選んだことで背負った苦、いづれにせよ何かを選び取りながら瞬間瞬間を見送り、それらによって好むと好まざるにかかわらず、自分の現実を創り出し、パターンを創りながら未来も創ってゆくのです。 

「選択権は自分にある」という認識が重要と言えますね

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