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チャリチャリにかけるおもい Vol.1

今までの歩みを振り返ってみます

はじめまして、チャリチャリを運営しているneuet代表の家本です。neuetのnoteに初めて登場します。今回から4回に分けて、私がなぜシェアサイクル事業に携わることになったのか、その背景はいったい何なのか、どのようなおもいを持って取り組んでいるのか、ということをお伝えしていきます。

全4回のシリーズものということにしておきますが、原稿の締め切りを催促してくれるこわい編集者がいるわけでもなく、連載とは違って原稿を落とすこともありません。気が楽です。昔、ある新聞に連載していたときには常に何かに追いかけられていた気がしていて、連載は自分には向かないから二度とお引き受けしないと心に誓いました。

私の特徴として、しばしば途中で話が脱線してしまいます。仮に話があさってのほうにいったとしても、投稿頻度があいたとしても、はたまた4回で終わらなかったとしても、この読者の方には優しく、生暖かく見守っていただきたいと思います。

なお、今まで私が筆をとらなかったのは「ねぇ、原稿というのは、ある時突然、天から言葉がふってくるのだよ」という謎の言い訳をし続けていたからであって、決して表に出たくなかったからではありません。告白すると、どちらかといえば表に出るのは好きです。

前途多難だと先に言いきっておけば、あとはマイペース。皮切りとなる今回は、チャリチャリの事業に出会うまでの時間を超特急で振り返ることにします。

初めて創業したのは15歳のとき

私は、もとはプロ野球を目指していた、「ごく普通の野球少年」でした。それが小学校6年生のときに体調を崩し入院生活に。その後何度かの手術を経て、中学2年生のときに受けた脳腫瘍の摘出手術のあと、車椅子生活になりました。身体障害者手帳をもらいました。

闘病中にパソコンとインターネットに出会います。この2つの存在のおかげで病気の最中でも、そしてその後に足が動かなくなっても世界と繋がっていることができました。色々な幸運ときっかけが重なり、中学卒業後の15歳のときにクララオンラインという会社を創業します。

私学の中学に通っていましたが高校には進学せず、創業した年の夏に大学入学資格検定(現在の高卒認定)に合格しました。教育委員会には、「車椅子受験で一度に全科目受ける人は聞いたことがない」と言われたのですが、無理を聞いて頂きました。今も昔も「やりたいことには真っすぐ」という性格は変わりがありません。

創業当初は右も左もの状態。印鑑の押し方もわからずお客さまに教えていただくし、名刺の渡し方も帳簿の付け方も分からず、スーツを着てネクタイを何とか締めて、あとは車椅子をこいであちこちに回りました。実は今でもクララオンラインのお客さまには私が15歳当時からお取引いただいている企業が数多くあり、ただただ感謝です。

このnoteではクララオンラインの歴史は少し飛ばさせていただきますが、初期の頃にはたくさんの失敗と勘違いを繰り返しました。15歳、車椅子、インターネットというキーワードがマスメディアの皆さんからすると珍しく映っていたでしょう。書店に行けば、常に自分のことが特集されている雑誌が並んでいました。ものの見事に有頂天になり、天狗になり、自分のことをスーパーマンだと思い込んでいた時代がありました。

車椅子時代の思い出

自転車を事業としている自分のバックグラウンドには、車椅子時代の経験があったことは否定しません。15歳のとき、もちろんまだ車の免許も無いので外回りの営業の移動手段は限定的でした。近場へは車椅子をこいで走り回ります。少し遠いところには電車や地下鉄。さらに交通が不便な場合にはタクシーでした。

タクシーで営業、贅沢なと思われるかもしれませんが、それ以外に選択肢がそもそも無いのです。それに創業した1997年当時、まだ多くの駅ではバリアフリーなどは進んでいませんでした。ある地下鉄の駅では、ホームから改札口まではエレベータがあっても、そこから地上にはエレベータがなく隣接する建物のエレベータを使うという動線。ところがそのビルの営業時間外だと上にあがることができません。ナニコレ珍百景に投稿したいぐらいです。

名古屋で創業した私は、月に何度か新幹線で東京に出張していました。あるJRの駅で、エレベータが無い駅に降りた際、駅員の皆さんに4人掛かりで車椅子を持ち上げてもらい階段を下ろしていただいたことがありました。が、おそらくその途中でお一人が腰に痛みを感じられ大変な様子。でも手を離すと全員大変な状況。今でも駅員さんが必死に持ち続けてくださった様子を思い出すと感謝の気持ちでいっぱいです。

別の思い出もあります。ある私鉄の駅で乗車しようとしたときのこと。その駅は地下に改札がありました。その頃になると私は車椅子を4人掛かりで持ち上げていただくのは大変だとわかります。そこで、車椅子から地面に降り、手の力で階段を一つずつ上り下りできる術を身に着けていました。車椅子だけを持っていただければよいので、お一人に介助いただくだけで階段がクリアできます。代償は、スーツのお尻が擦り切れることです。当時のスーツはかなりお尻が破れていました。

その日は運が悪く、大雨でした。駅員さんに介助をお願いしたところ、駅務でお忙しかったのか、さっと指をさされ、島式ホームの向こうにある踏切を示し、そこまで行ってホームを上がってくるように伝えられました。オーマイガー。車椅子では傘がさせないので、雨にふられると基本的にはずぶ濡れコースです(雨合羽を着る人もいますが大変なので私はほぼ着ませんでした)。たたんだ車椅子を階段の下まで運んでいただくだけでいいのに、、と思ったのですが、叶いませんでした。駅員さんはきっと自分ひとりでは対応できないと思われたのでしょう。四半世紀近く前ではまだバリアフリーもほぼ浸透していなかった時代。泣きましたが、これもまた今の糧になっています。

移動には選択肢が必要。選択肢があることが幸せだ。

私は、neuetの経営に関与するとき、最初にこの言葉をメンバーに言いました。背景をきちんと伝えられた記憶がないので、おそらくほぼ伝わっていなかったと思います(笑)。

ここでなぜ車椅子の時の思い出話をしているのか、改めてご説明します。移動が不自由な人も、最初から移動が不便だと思っているわけではないはずです。少し外出してみて、そこで不便に出会うのです。そうするとだんだん億劫になります。次第に、潜在的な意識の中に、移動してもどうせ不便だし、つらいこともあるし、と思うようになってしまいます。

移動に選択肢があることって、実はとても素晴らしいことなのです。今でこそ私は歩けるようになり、身体障害者の手帳は返納し、車の免許もあり、自転車にも乗れ、「元車椅子なんです。」といっても「またまたぁ」と言われます。この読者の方の多くは足が動くことが当たり前の生活だと思われているかもしれませんが、皆さん、それは歩くという一つの選択肢があるということなのです。

もう一つ。日本の20世紀の経済成長を支え、大量輸送による効率的な移動を支えている鉄道に触れたいと思います。わが国が定時運行世界一を誇っており、都市部の鉄道は5秒や15秒単位などのダイヤとこれを管理するシステムが存在しています。しかし、しかしですよ。いつもいつもそのような高い定時性のある移動だけが必要でしょうか。確かに私も「絶対に間に合いたい」と思うときにはこのダイヤの正確さの恩恵を十二分に受けています。

一方で、人の生活の中では、今日はそこまで急がないな、今日は満員の電車やバスに乗る気分ではないな、もっとゆっくりと移動して街の様子を見てみたいな、と思うこともあるのではないでしょうか。挙げたことは一例ですが、私自身は、自らが選べる選択肢は多いほうが人の生活は幸せになるはずだと思っています。

「好き嫌い」と経営

一橋大学の楠木建先生の御著書のタイトルです。私の大好きな本です。まわりの経営仲間が悩んでいるときには必ずすすめる一冊です。

私は自転車事業をはじめる際、この一冊に奮い立たされました。私なりの解釈では、今までの経営では、この市場が有望だ、自社製品はこれで差別化できる、素晴らしい戦略がある、といったような、ある意味で経営として正しい姿が結果を残しているとされてきました。しかし、実は調べてみるとそもそも経営者の熱量が桁外れに違う会社が伸びているんだということが導かれます。その根本は何か。それは、「好きか嫌いか」ではないかというのです。

当たり前といったら当たり前ですが、世の中の経営者の皆さん、その事業が本当に好きで好きで好きすぎると言いきれ、寝ても覚めてもそのことばかり考えていられるという人はどれぐらいいるでしょう。仮に競合と同じ要素が揃っているとき、勝つのはどちらかといったら答えは自明です。

ここで、今日2つめの告白をします。私は、乗り物が好きです。自転車が特に大好きです。私の家の部屋は、自転車以外にも、子供の頃から集め続けた鉄道・飛行機・バスなどの書籍・ミニチュアなどで占められています。愛読書は月刊エアラインと鉄道ファン、鉄道ジャーナルです。そしてもう一つ。地図、特に古地図が大好きです。

地図好きがチャリチャリをすると、さらに楽しい

地図は集め始めたらきりがなくなってきましたが、最近はインターネットでも古地図を見ることができます。なんという便利な世の中でしょう。神田の古本屋さんも好きですが、インターネットで見ていればもうそこに江戸時代も明治時代も、あるいはもっと昔の時代まで浮かんできます。

一つ一つの道や坂、街の区画はすべて過去から繋がっています。それをおもうだけで、ロマンもあるし、街の一つ一つの様子を愛せます。この事業に携わるようになってから、真っ先に福岡の道を地図とともにまわりました。特に警固や天神・大名・赤坂周辺を歩いたときに、道路が曲がっていることに気づきます。たとえば国体道路。(今の警固神社がある前のあたり)ここは昔は川でした。今でも石垣が残っている場所はたくさんあります。もとが川のところに道路がありますからね。それはもちろん真っすぐにはなりません。そしてこのあたりには向かい合わない交差点もたくさんありますよね。これは城下町特有ですが、見通しをあえて悪くする防御のためだといわれています。宿場町も同じく、宿場の中は一直線ではありませんでした。

チャリチャリの他の展開エリアだと、名古屋はその逆で、中心部の道路は東西南北の碁盤の目。これは戦国時代が終わり江戸時代に入ってから城下町が出来ているためです。もはや徳川の時代になって攻め込んできそうな存在は近くにはいませんでしたしね。

東京で展開するエリアもまた歴史があります。例えば台東区側は江戸の大火後の道の整備の影響を大きく残しています。そして、やはり江戸城から見た位置関係も興味深いです。北東の鬼門を抑えるためとされているお寺の位置、その周囲にできる門前町。さらには江戸初期に江戸城をつくるために移された寺院など、現在の市街地の形成と寺院は大きく関わっています。論文や書籍を読めば読むほど睡眠時間が削られますので困り果てています。

地名も一つずつ、歴史が残ります。そこに人が暮らし、時代の移り変わりの中で都市が形成されてきています。そして、チャリチャリが毎日走っている福岡、名古屋、東京の街はそれぞれがこうした歴史の上に成り立っています。新しいポートが出来て新しい地名に出会うたび、この地名にはどのような背景があるのかな、なぜここはこの道幅なんだろう、ここには昔なにがあったのだろう、と辿るわけです。

チャリチャリの事業としてのポテンシャルがいかにあるかは今後の稿に持ち越しますが、根本的には、こうした「好き」があるのです。

次回は、大学時代に私がバス会社を立ち上げようとした話から続けます。冒頭、超特急で振り返るといったわりに、寄り道をしたまま戻ってこられませんでした。でも、そんなのもよくないですか? 寄り道できるのが自転車のいいところですし。

最後に、大事なお知らせがあります。neuetでは、チャリチャリの未来を共に描く人材を絶賛募集中です。中でも、私と共にCSO/CFO候補としてチャリチャリの事業戦略を推し進めていっていただける方を求めています。まずはぜひお話ししましょう! 
シェアサイクル業界の成長戦略を描く!チャリチャリのCSO/CFO候補募集

それではごきげんよう。

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