映画 ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人
すばらしいドキュメンタリー。アマプラで観た。
アメリカの公務員夫婦が30年かけて、趣味で現代アートのコレクションを続ける話。夫婦はそれらを一点も売らなかった。
夫婦の審美眼は確かで、公務員の給料で安く買ったコレクションの価値は時間と共に暴騰している。一点でも売れば、1DKのアパートから出られるのに、二人はそうしない。
金よりコレクションだと、さも当たり前に言う。
観終わって、素敵な映画だったなあと寝た翌朝、妻に「いい映画を観たんだ」と報告していたら、やたらと泣けてきた。
購入のために現代アートを審美するハーブの顔を思い出してしまったのだ。あの目を思い返すと、今でもエモーションが高まる。
そろばんを一切弾かずに現代アートを「自分のものにしようと」見るハーブの表情は捕食者そのもので、「先端のハイカルチャー」に対峙しているのに、生々しくて性的だ。
とにかく、顔に嘘がない。
顔そのものが、目そのものが、「価値観」になっている様子が、ちゃんと映像に写り込んでる。
ハーブの審美眼がどういうものかは、僕にはよくわからない。センスがあるのかないのかも、映画を見るだけではよくわからない。
たぶんそれを評価しようとする軸は存在しない。そういった比較が成立しないくらい、ハーブの価値観は当人の内側において絶対的だ。
つまり、「俺がいいと思った」の軸が全くブレないのだ。
このブレなさが凄い。「自分がいいと思ったら、それはいい作品だ」というシンプルな軸が、シンプルな軸のまま在り続けている。こんな美しいコレクターもいない。
アートを買う、というのがどういう行為なのか、はっきり伝わってくる。
どんな時代でもアートの本質的な良さは、常にはっきりしていない。価値があやふやなものだ。
この作品に対して、自分がどう思うのか。
それを自分で考え、掘り下げ、時には作者のアトリエに乗り込んで、十分に検討して、最終的には身銭を切って、自分のものにする。
この、身銭を切る行為が決定打になる。
自分の価値観に、全力でベットするのだ。
周囲は一切関係ない。投機目的でこのスリリングさは生まれようがない。
ハーブの審美眼は間違いなく、このスリリングな「価値観の駆け引き」を、一回一回、購入のたびに全力でやることで磨き続けられたのだろう。
おそらくコレクターの、本来の姿だ。
でも、このご時世じゃ本来の姿であり続けることが奇跡的だ。常識的な生活者に身銭を切れるような余裕は作りづらいし、富豪のコレクションには、価値観の駆け引きの痕跡がない。余裕の幅が広すぎるのだ。
奥さんのドロシーの佇まいもすばらしい。
常に参謀的な佇まいをキープしている。アート購入における検討者の「半分」でありながら、夫の審美眼を完全に信頼している様子も清い。
一人のアーティストが、「あの夫妻は依存症のようだった」と述べている。本当にすばらしい。
「アートと自分の関係」を第三者が見たら依存症に見えるなんて、好寄者の到達点じゃないか。
この素晴らしさは、先端の、しかもフレッシュな現代アートの周辺でしか成立しない。
自分よりも先に、誰かが絶対的な価値をつけているのが芸術の常(というかその価値付けで芸術になる)だから、自分のピュアな価値観をぶつけられるのは、本当にそこしかない。
「既にあるもの」には、全て価値がつけられている。
現代アートは「既にあるもの」ではないからアートであって、未評価である状態が最も「現代アート性が高い状態」なのだ。その先端の尖りを、夫妻は自分たちだけの価値観で食らう。ほんとうに食べ物を選ぶような欲を伴って。
かわいい夫婦が、どんどん宝石のように見えてくる。
すっかりやられてしまった。
何よりすばらしいのは、見ているうちに、自分もこの二人のように、自分だけの価値観で「なにか」を貪りたい!と思えてくることだ。アートマーケット(的なものすべて)に対する強烈なカウンターになっている。