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「匂いの記憶ってすごいらしい。」

 クラスメイトの岡本くんが学級日誌の連絡欄にそう書いているのを発見した時、めっちゃオシャレやん…と唸った。

 高校生にもなるとその連絡欄は空欄か「特に無し」がほとんどで、たまに男子がウケ狙いのような文章を書き残したり、誰かが謎の絵しりとりを始めたりしていたけれど、岡本くんのように情緒溢れる「連絡」を私は読んだことが無かった。


 私は大抵の人がスルーするであろう学級日誌を読むことを密かな楽しみとしていて、連絡欄以外にも時間割などの欄を読むのも好きだった。それぞれの筆跡や書き方から、
「◯◯くんは書道の先生みたいに整った字だ」
「●●さんは"ま"の書き方が特徴的だから筆跡鑑定ですぐバレそう」
「◎◎くんは3時間目から寝たっぽいな」
などと勝手に色んな感想を抱くのである。
 最後までキッチリ書く人、途中から急に字が変わる人(誰かに代筆させている?)、走り書き過ぎて読めない人。竹を割ったような性格の人は字も大きくハッキリしていたりと、書き方が十人十色で面白い。
 まあまあ気持ち悪い趣味だったなと、これを書いている今思っている。

 その密かな楽しみは月に一、二回程度、自分の日番が回って来た日にだけ実行していた。毎日何が何でも日誌を読むことに必死で日番の人に「日誌を読ませて欲しい」と懇願した訳ではない。
 余談ですが「日番」と呼ぶ地域は全国でも限定されているみたいですね。


 ほとんどの生徒が計3分くらいで書き終える学級日誌に対して、担任の先生はいつも丁寧な字で返信していた。
「体育のマラソン、お疲れ様でした。」
「今日は暑かったですね。水分補給をしっかりしてください。」
「先生もお腹が空きました。」
 他にも山ほど業務があるだろうに、毎日生徒の日誌に一言返信する。
 明らかに先生と生徒の"日誌へ向き合う熱量"には差がある感じで、生徒側はほぼテキトーなんだから学級日誌って先生の負担になるだけでそもそも必要か?と私は思っていた。学級日誌のファンであるにも関わらず。

 先生は、冒頭の岡本くんによる情緒溢れる「連絡」にも丁寧な返信をしていた。

「そんな感性を持っている岡本くん、とても素敵だと先生は思います。」

 その返信を読み、何故か無関係の私がとても嬉しかった。そうですよね、先生!と思った。

 岡本くんが綺麗な言葉をこのテキトーな日誌に書き残してくれたことは荒野に咲く一輪の花のようだし、先生が綺麗な返信をくれたことはその一輪の花に降り注ぐ貴重な雨水のようだった。この荒廃とした学級日誌でそんな美しいやり取りを見られるなんて想像もしていなかったのだ。荒廃は荒廃で面白いんだけど。
 私は荒野に咲く一輪の花に降り注ぐ貴重な雨水を見てウットリする、単なる観光客である。

 良いものを見させてもらいました。ありがとう――。
 と思っただけで、私は岡本くんにも先生にも何も話し掛けていない。


 私は元々嗅覚がそこそこ敏感で、遠くの山火事を察知したり、室内で誰も気付かない程度のガス漏れに気付いたりする。
 はじめは皆「そんな匂いしてないよ」と言うのだが、大体が的中しているので(山火事のニュースが出たり室内のガスの元栓が少し開いていたり)、そのうち私が鼻をクンクンし始めると周りの人も異変の原因を探すようになった。
 自分のそういう特徴もあるし、岡本くんが「匂いの記憶ってすごいらしい」と書き残すものだからそれがオシャレワードとして未だに自分の頭に残っているのも無きにしも非ずだけど、確かに嗅覚からの刺激ってとても記憶に残る。
 匂いと一緒にその時の感情まで想起される。他の人はどんな感覚がそうなのかな、特別強く残る感覚は人によって違うのだろうか。


 子供の頃母の雑誌に香りの見本で付いてきた青い瓶の香水の袋とじ、
 パックから取り出したての新品の遊戯王カード、
 コロコロコミックの冒頭カラー広告ページ、
 埃っぽい市民図書室、
 と、そこに置いてある日に焼けた『笑ゥせぇるすまん』の単行本、
 おばあちゃんちのトイレ、
 近所の翔子ちゃんちのリビング、
 仲良しのなっちゃんの手、
 賢太くんが噛むミントガム……。

 最後の方は人名ばかりになったけど、私が好きと感じる匂いは、そのまま好きな人との記憶に直結しているようだ。
 誰かといて楽しかった記憶にはいつもその人の匂いがある。でも不思議なことに、香水や柔軟剤のような強い香りはあまり記憶に残らない。かすかな香りの方が強く残る。

 それから、雨が降る前の匂い、冬の朝の匂い、夏の夜の匂い。誰かが記憶にいる訳じゃないけれど、その匂いに出会える季節が好きだ。


 あまり良くない匂いの記憶もある。

 光化学スモッグ、
 プールの塩素消毒、
 春の晴れた日の午前中、
 大学のパソコンルーム、
 某ハンバーガー屋のバックヤード、
 某スーパーのバックヤード、
 某ネカフェのバックヤード、
 某ホテルのバックヤード……。

 バックヤード率の高さたるや。
 学生時代にバイトしてた時の記憶はほとんど嫌な匂いとして記憶に残っている。バックヤードじゃないけど塩素とかも、全て「早く帰りたい」気持ちが想起される。
 この場所から離れたい、という気持ちになる匂いは嫌な匂いとして残っているようだ。なんだか本能的。

 これから出会う匂いは早く帰りたい気持ちになるものが少ないと良いな。


 オシャレな言葉を学級日誌に残した岡本くんは、その後ミュージシャンになり上京した。テレビでその姿を見ることもあった。
 そういえば岡本くんからはいつも砂糖のような甘い匂いがしていた。
 彼は私の初恋の人でもある。






 

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