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日々が滑っている。

久しぶりに文を書く気になった。

というよりは単純に時間確保ができなかった。でも色々削れば書けるんだからぶっちゃけると僕の内面にある文章書きたい欲はほぼ無かったんだろう。かしこ。

話たがりなのでこれで終わるわけもなく。

学生の頃あれほど馬鹿にしてた会社員になって半年が経った。

神経痛で救急搬送されたり長年悩んでる蕁麻疹(例年は冬から春先にかけて)に今年は長期間悩まされてる。

すべての体調不良はやはりストレスらしい。

仕事は楽しい。雇用創出をし、地域活性化も担っている仕事だと思うと身が引き締まる思いである。ただ、自分の一声に人々の人生がかかってると思うと、仕事は楽しむもんっすよ〜と周りには吹聴してるが、身体は正直で、常に悲鳴を上げてるようだ。

あいも変わらずというか、捻り出して音楽も続けられている。新しいことも始めようとしている。新しい人々にも出会えている。

ただ、どこか、虚しい、なんでだろう。内省してみたらわかった。日々が豊かすぎていつか終わる人生にやるせなさを感じているのだ。

人生を登山と置き換えるとする。

どれだけ人生の山を登ってもいつか下山を始める日が来る(老い)。そして登山開始を出生だとするといつか確実に下山(死)があるんだ。

こんなに人生楽しいのにいつか死ぬことが悲しくて、悔しくて仕方ない。不思議と小さい頃に抱いていた死への恐怖は無くなった。何よりも怖いのは生きていく中でなにかへの興味を失うことだと今は感じている。

わがままだとわかりつつもいつまでも感度高めに、アンテナを張りまくり生きていきたい。自分のこと、そんじょそこらの小学生より好奇心旺盛だと思っている。

いつか全ての意欲が無くなると自死を選ぶんじゃないか、なんて厨二っぽいことをふと駅のホームで、いつの日にか思った。

ただ、とある日、会社員を馬鹿にしてた大学時代の自分が書いた歌詞にハッとさせられた。
作詞をしたのは僕なんだから僕にしか本当の意味は分からないんだろうけど。実は僕もあの時のなんも社会を知らない自分がどんな思いで書いたか分からない。確か有名人が亡くなった夏の日に書いたんだと思う。

そういえば最近親友ができたと勝手に思っている。野暮だと思いつつどうしても彼女の歌詞について質問したく質問すると「なんですかそれ」と帰ってきた。その子は自分の歌詞をすぐ忘れてしまうらしい(?)。僕は我が子のように歌詞を愛でるタイプだからいろんな人間がいるもんだなあとまた、ハッとさせられた。

僕の歌詞で自身に刺さったのは以下である。
なんだか人生を表してしまっているような気がする。また書きたくなったら。

生きていこうみんなで。自分のことは自分で。

知らないひと
ひらく夏

その一節。

暮れてないことは 繋いだり 暮らしていくこと 線を行くこと 続けられそうかい。

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