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聖書の登場人物を学ぼう|サムエル③

サムエル記上5章-7章 物事を正しく見る力

1.奪われた契約の箱

5:1 ペリシテびとは神の箱をぶんどって、エベネゼルからアシドドに運んできた。

 これまでの背景を見ますと、まず、イスラエルで神の決まり事を守らない祭司がいました。そして悔い改めませんでした。
 そのことから、どうやらイスラエルの民全体もほかの神さまを求めるようになったようです。

 次に、イスラエルの民にとって神さまとの接点であり、またアイデンティティそのものである契約の箱が敵国ペリシテ人によって奪われたということです。神さまはこのことをあらかじめ預言していました。

 それは、神の人と名前が記されていない人と少年サムエルを通してです。しかし、残念なことに、結局、悔い改めをしないままの状態であったので、神さまはペリシテ人を使ってご自分の民から離れるという結果になるのです。

 多くの人はこの話を聞くと、イスラエルの神さまなのに、なぜイスラエルを悔い改めさせる力がないのかと言われます。

 ものの見方を変えればわかっていただけると思うのですが、私たちは自分の判断と責任によって人生を歩んでいるはずです。それがどこに生まれたとしても、どのような文化にいてもです。

 聖書の話は、そのことを具体的に教えてくれているのです。神さまはそのことをイスラエルに理解させるために、わざと屈辱的な結果をもって教えようとしているのです。

 例えは良くないかもしれませんが、いつまでも改めない悪癖を止めるために。強制的に施設に入れなければ更生できないような状態と言えばわかりやすいでしょうか。


 さて、そのことは契約の箱がペリシテ人に奪われてからも納得できると思います。なぜなら5章には、奪った契約の箱に関わったことによって多くのペリシテ人が重い病気になったり、自分たちの信じている神の力のなさを思い知らされたりしているからです。

 このことからペリシテ人たちはイスラエルの神さまの導きを頼るようになります。おもしろいことに、ペリシテ人はイスラエルの神さまを恐れて、いけにえをささげて償おうとします。 
 また、契約の箱を牛にひかせて導きのままに去らせます。ですから、敵国ペリシテにおいてもイスラエルの神さまは、生きて働いているということを知らせる結果になっているのです。

2.イスラエルの悔い改め

 当時の政治的、また宗教的な指導者であったサムエルはこのように言っています。

7:3 その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう」。
7:4 そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた。
7:5 サムエルはまた言った、「イスラエルびとを、ことごとくミヅパに集めなさい。わたしはあなたがたのために主に祈りましょう」。
7:6 人々はミヅパに集まり、水をくんでそれを主の前に注ぎ、その日、断食してその所で言った、「われわれは主に対して罪を犯した」。サムエルはミヅパでイスラエルの人々をさばいた。

 まず、イスラエルの神以外の神を捨てなさいと命じました。これは当然ですね。イスラエル人は素直にしてました。
 そして、一所に集まって心から悔い改めることをしました。

 断食はただ食物を断つという意味ではなく、心を注いで改めるということが目的です。サムエルも祭司として神さまとイスラエルの民の和解のために祈ったということです。
 その時に、ペリシテ人は懲りずに集まったイスラエルを攻めに来ました、しかし、神さまは、悔い改めたイスラエル人を見て、雷によってペリシテ人を討ち果たしました。

 ここはとても大きなポイントの場所です。ペリシテ人は十分にイスラエルの神さまの恐ろしさを身をもって知ったわけです。ゆえに、ささげものと同時に契約の箱を丁重に送り返したのです。
 しかし、ミヅパというところで集まっているイスラエル人を倒すチャンスだと考えて攻めてきているわけです。人間の知恵のなさ、またおろかさ、改めに遅いということをよくよく教えられるわけです。


 一方のイスラエルはそうではありません。本当に自分たちが悪かったことを指導者はじめ、皆、悔い改めたのです。結果、律法に書かれている通りに、神さまは自分たちを守ってくれたのです。

 私たちはどうしても、現在起こっている現象的なことにのみ心を動かされやすいのものです。そうではなく、神さまとともに生きるという本質に心を動かすとき、自分の立ち位置を現象的な問題だけではなく、物事の本質や出来事の文脈で考えることができるようになるということでしょう。

3.サムエルについて


 今日にメッセージを閉じるにあたって、サムエルのことを補足として付け足しておきたいと思います。

 彼は、祭司の家系ではありません。それは1回目の時にもお話ししました。しかし、本日の個所はなぜ彼が祭司として目立った存在となったのかが教えられます。

 まず、初めに話したように、エリという祭司の家系は自分の私情や欲望から職制・職務を正しく保つことができなかったこと、そしてそれに代わってサムエルがその立場になったことを証ししている個所とも言えるわけです。

 このことから教えられることとして、人はその立場や職務によって神さまの前に善(よ)しとはされないという点です。
 言い換えれば、立場や職務にふさわしくない態度や行いなら、その立場や職務のゆえに、格別きびしいさばきを与えられ、取り除かれるという現実も教えてくれています。

 それは、私たちの日常生活における職場や学校、家庭での責任や立場にも同じく適用できることではないでしょうか。
 先ず、現状の問題や失敗を悔い改めるという態度・姿勢が大切なようですね。


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