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聖書の登場人物を学ぼう|ルツ記①

(全4回)
 ルツ記1章 
絶望の中にある希望

 このルツ記は士師記とサムエル記の間に挟まれています。実はこのルツ記はなくても聖書の文脈を損なわずに読むことが可能です。言い換えれば、あえてここにルツ記を挟み込んでいるようにも見えます。

 実は、聖書の多くの個所でそのようなところは存在します。では、そのような個所は大事ではないのかというと、とても注目をするべき箇所と言えるのです。
 あえて挟み込んでいるわけですから、文脈の流れを切ってでも差し入れるべき本質があることを聖書記者は伝えたいということです。
 それを踏まえるとルツ記はどうしても神さまが伝えたい物語であることがわかっていただけるはずです。


1.逃げ出した家族

1:1 さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。

 《さばきづかさ》とは前回まで話が続いた士師記の時代のことです。士師記がどんな時代であったのかは士師記21章25節のことばが本質をついていると思います。

21:25 そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。

 当時はすでに、神さまがモーセを通してイスラエルに与えられた律法がありました。しかし、この個所を見ますとイスラエルの多くの人たちは律法に従うのではなく、自分の価値観で行動していたことがお分かりいただけると思います。

 士師記の《おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。》という時代のなかで飢饉が起こり、神さまの定めた律法から外れた、エリメレクという一家の紹介からこのお話は始まります。その一家の概要を紹介しているのが、2-5節です。

1:2 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、ふたりの男の子の名はマロンとキリオンといい、ユダのベツレヘムのエフラタびとであった。彼らはモアブの地へ行って、そこにおったが、
1:3 ナオミの夫エリメレクは死んで、ナオミとふたりの男の子が残された。
1:4 ふたりの男の子はそれぞれモアブの女を妻に迎えた。そのひとりの名はオルパといい、ひとりの名はルツといった。彼らはそこに十年ほど住んでいたが、
1:5 マロンとキリオンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子と夫とに先だたれた。

 国に飢饉があり厳しい状況の中で、男の子2人を連れてモアブというイスラエルの神に敵対する地に逃れて行きました。

 そうですね。一見、仕方ないようにも見えるのですが、これまでアブラハムから続く先祖たちの約束の地であることや律法を中心に考えるなら、モアブへ移住するのは、軽率な行動であるとも言えます。

 そのような中にあって、エリメレクと息子2人はお嫁さんたち3人を残して亡くなってしまうのです。


 ここから教えられることは、神さまを信頼しない生き方は、決して自由でも気楽でもなく、自己中心的な思考と行動になってしまうということですね。
 そればかりではなく、家族やあなたの愛すべき隣人さえも悪い影響を与えてしまうという事に直面することにもなりえるのです。

 少し3-5節を振り返りますと、
 3節《ナオミの夫エリメレクは死んで、ナオミとふたりの男の子が残された。》2人の息子と共に残されたナオミが担った試練の重さが十分に物語っています。

 4節で2人の息子はモアブの女性と結婚して10年ほど暮らしました。その中に主人公のルツがいます。

 5節《マロンとキリオンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子と夫とに先だたれた。》移住後1つの家庭に三度も不幸が襲います。2人の子どもを持つ夫婦に飢饉だけでも厳しい生活が容易に想像できます。さらに、夫と2人の息子を失うナオミの心情は想像を絶します。


2.ナオミの決心


 このような中、夫と息子2人を亡くしたナオミは行動します。

1:6 その時、ナオミはモアブの地で、主がその民を顧みて、すでに食物をお与えになっていることを聞いたので、その嫁と共に立って、モアブの地からふるさとへ帰ろうとした。

 ナオミは神さまから与えられた約束の地に帰ろうとします。もちろん、飢饉がおさまったからですが、それだけではなく、《主がその民を顧みて》と書かれていることが大切です。

 おそらく、ベツレヘム周辺の飢饉は、神さまに対する不信心から来たことは想像に難しくありません。
 なにしろ、イスラエルの民は《おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。》のですから。

 それを顧みてくださったということは、多くの人が神さまの民として悔い改めたということでしょう。もちろん、それはモアブに逃れていたナオミも同じであったということです。


 ナオミは、死んだ2人の息子の嫁とともにベツレヘムに向かおうとします。しかし途中、思い直し2人のお嫁さんをモアブの実家に帰そうとします。しかし、2人ともどうしてもナオミについて行こうとします。2人の義理の娘にしてみればついて行くメリットはありません。

 ユダの砂漠という危険な砂漠を越えなければなりませんし、何よりも苦労してついて行ったところで女性3人が食べていける保障はないからです。今の時代のように福祉も充実していませんし、女性の仕事もほとんどない時代です。それを考えると、この3人の絆がとても強いことがお分かりいただけると思います。

 ナオミはなおも説得をして1人は実家に帰ることになりました。しかし、もう一人の義理の娘は決して離れようとしませんでした。それがこのルツ記の主人公ルツです。

 ルツはこのように言いました。

1:16 しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。
1:17 あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。

 ナオミは、ルツの自分を慕う気持ちとともに、モアブ人でありながらイスラエルの神を自分の神として生きていく覚悟を聞いて一緒にベツレヘムに行ったのです。

3.絶望の中にある希望


 こうしてベツレヘムに着いたナオミとルツでしたが、ナオミの苦しみは絶頂の中であったようです。

1:19 そしてふたりは旅をつづけて、ついにベツレヘムに着いた。彼らがベツレヘムに着いたとき、町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、「これはナオミですか」。
1:20 ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。
1:21 わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。

 《「これはナオミですか」。》と、騒ぎ立てる知り合いたちから言われるほどに外見や行動は弱っていたのでしょう。
 さらに、《「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。」》というほどに心が弱っています。
 ナオミは《から手》、すなわち何も持たずに帰ってきたと認識しています。もちろんそのように思うことは自然なことでしょう。

 しかしよく考えてみてください。本当にナオミは何もなかったのでしょうか。そうではありません。ナオミには、後に7人の息子に勝ると称されるルツという信仰の友がいたのです。
 私たちも同じです。神さまを求める者には備えと導きがあるのです。その時には何も見えず、絶望しても、神さまは、求める者に備えと導きを与え、決してお捨てにならないないお方であることを教えられます。


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