聖書の登場人物を学ぼう|サムエル②
サムエル記上2章12節-4章
神を侮ること
1.エリの息子たちの罪
エリの子らは、何が“よこしま”であったのかと言いますと、神さまへのささげものについての規定をしっかり守っていなかったことです。
当時のささげものの主なものは肉でした。それは当時の高級品です。今もそうかもしれませんね。これを祭司の家系の人は一部をもらうことができると律法には書かれています。
しかし彼らは、鍋や大釜の中で煮ている肉を肉刺し(大きな串)で取り出して、勝手に自分のものにしていました。いくらでも肉を取ることができ、神さまへのささげものは、ほんの少しとなるわけです。(民のいけにえの上前をはねていました)
しかしエリの息子らは、このように命令し力づくで自分たちの欲望を満たそうとしました。
また、肉を焼くように規定されているささげものについては、脂肪は神さまのものであるという明確な規定がレビ記に何度も書かれています。
現代人にとってはコレステロールの問題などが言われますが、肉の脂肪部分は、食べておいしい部分ですから、そのまま食べたいということです。
ともかく、このようなエゴイスト(利己主義)な行動の背景には、神さまを侮る心があるからです。彼らは祭司職です。一番に神さまの基準を守らなくてはいけません。ところが、自分の考えが基準になり、祭司の仕事をしていることが原因です。
私たちの日常生活でも同様ですね。組織の決めごとに従って動けなくなる時は、必ずと言っていいほど個人の私情(私欲)が影響しているということです。
私情(私欲)は理解できますが、組織を健康的かつ円滑に運営するならば、このようなことは排除されなければなりません。組織として統制・維持ができなくなるわけですから。
2.エリの罪
これに対して父エリは当然息子たちを叱ります。
エリは息子たちに祭司としての働きの重要性を《人が主に対して罪を犯すならば》(2:25)ということばを使って戒めているわけです。しかし、息子たちは聞く耳をもっていません。神さまに対し、神の民に対し、また自分の父親や親族に対してどれほどの迷惑と罪を犯しているのかがわからなくなっているのです。これが人間の罪の本質であると言えるでしょう。
さて、エリは祭司の家系の長として、また父親としてどうでしょうか。ここまでの記事を見れば父親としての働きはしっかりしているようにも見えますが、神さまの評価はそうではありません。
2章29節です。
厳しいようですが、神さまの前には、“聖さ”という結果が伴わなければならないということです。親であれば、子どもかわいさからエリまでの指導しかできないのではないか。と思われますが、エリが本当に神の民の祭司であることを考えると、息子たちは祭司職として相応しいでしょうか。
神さまと民との間の職務である祭司職を重んじれば、息子たちを退けるべきであったことはおわかりいただけるのではないでしょうか。先ほども述べましたように、このように組織は腐敗していくのですから。
エリは神さまから、神の人と少年サムエルを通して忠告を受けました。しかし、エリの立場で罪を犯す息子たちを退けることができない結果、神さまご自身がご介入されることとなります。
3.神を侮る結果
イスラエル人は、敵国のペリシテ人と戦うことになりました。その際に3万人ものイスラエル人が殺され、神さまとイスラエル人との接点である契約の箱が奪われることになりました。
これらのことは結果的に、エリが祭司職を正さなかった報いとなってしまいました。ペリシテ人との戦争で息子らは戦死し、エリ自らも失意の中に死んでいくのです。
この時、エリは自分の役割を果たせなかったことを思い知ったことでしょう。そして、神さまを自らが侮っていたことも。
私たちが2022年を生きていく中で何が教えられるでしょうか。
それは、まず何よりも神さまを侮らない生活をすることです。
自分自身の私情(私欲)は必ずあります。そこに心を奪われることはエリの息子たちだからでしょうか。また、エリのように問題を先延ばしにする結果になったのはエリだからでしょうか。そうだとしたら聖書から何も学んでいないことになります。
神さまは、イスラエルの民がご自身を侮り、それを助長するような問題があっても、必ず解決されます。敵国のペリシテ人を使われてもです。
私たちも自分たちの私情(私欲)的問題によって神さまを侮ることがないようにしたいものです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?