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聖書の登場人物を学ぼう|サムエル②

サムエル記上2章12節-4章
神を侮ること

1.エリの息子たちの罪

2:12 さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった。

 エリの子らは、何が“よこしま”であったのかと言いますと、神さまへのささげものについての規定をしっかり守っていなかったことです。
 当時のささげものの主なものは肉でした。それは当時の高級品です。今もそうかもしれませんね。これを祭司の家系の人は一部をもらうことができると律法には書かれています。

 しかし彼らは、鍋や大釜の中で煮ている肉を肉刺し(大きな串)で取り出して、勝手に自分のものにしていました。いくらでも肉を取ることができ、神さまへのささげものは、ほんの少しとなるわけです。(民のいけにえの上前をはねていました)

2:15 人々が脂肪を焼く前にもまた、祭司のしもべがきて、犠牲をささげる人に言うのであった、「祭司のために焼く肉を与えよ。祭司はあなたから煮た肉を受けない。生の肉がよい」。
2:16 その人が、「まず脂肪を焼かせましょう。その後ほしいだけ取ってください」と言うと、しもべは、「いや、今もらいたい。くれないなら、わたしは力づくで、それを取ろう」と言う。

 しかしエリの息子らは、このように命令し力づくで自分たちの欲望を満たそうとしました。
 また、肉を焼くように規定されているささげものについては、脂肪は神さまのものであるという明確な規定がレビ記に何度も書かれています。

レビ記3章3-5節
3:3 彼はまたその酬恩祭の犠牲のうちから火祭を主にささげなければならない。すなわち内臓をおおう脂肪と、内臓の上のすべての脂肪、
3:4 二つの腎臓とその上の腰のあたりにある脂肪、ならびに腎臓と共にとられる肝臓の上の小葉である。
3:5 そしてアロンの子たちは祭壇の上で、火の上のたきぎの上に置いた燔祭の上で、これを焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。

 現代人にとってはコレステロールの問題などが言われますが、肉の脂肪部分は、食べておいしい部分ですから、そのまま食べたいということです。

 ともかく、このようなエゴイスト(利己主義)な行動の背景には、神さまを侮る心があるからです。彼らは祭司職です。一番に神さまの基準を守らなくてはいけません。ところが、自分の考えが基準になり、祭司の仕事をしていることが原因です。

 私たちの日常生活でも同様ですね。組織の決めごとに従って動けなくなる時は、必ずと言っていいほど個人の私情(私欲)が影響しているということです。
 私情(私欲)は理解できますが、組織を健康的かつ円滑に運営するならば、このようなことは排除されなければなりません。組織として統制・維持ができなくなるわけですから。

2.エリの罪


 これに対して父エリは当然息子たちを叱ります。

2:23 彼らに言った、「なにゆえ、そのようなことをするのか。わたしはこのすべての民から、あなたがたの悪いおこないのことを聞く。
2:24 わが子らよ、それはいけない。わたしの聞く、主の民の言いふらしている風説は良くない。
2:25 もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」。しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。主が彼らを殺そうとされたからである。
2:26 わらべサムエルは育っていき、主にも、人々にも、ますます愛せられた。
2:27 このとき、ひとりの神の人が、エリのもとにきて言った、「主はかく仰せられる、『あなたの先祖の家がエジプトでパロの家の奴隷であったとき、わたしはその先祖の家に自らを現した。
2:28 そしてイスラエルのすべての部族のうちからそれを選び出して、わたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って、香をたかせ、わたしの前でエポデを着けさせ、また、イスラエルの人々の火祭をことごとくあなたの先祖の家に与えた。
2:29 それにどうしてあなたがたは、わたしが命じた犠牲と供え物をむさぼりの目をもって見るのか。またなにゆえ、わたしよりも自分の子らを尊び、わたしの民イスラエルのささげるもろもろの供え物の、最も良き部分をもって自分を肥やすのか』。
2:30 それゆえイスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。
2:31 見よ、日が来るであろう。その日、わたしはあなたの力と、あなたの父の家の力を断ち、あなたの家に年老いた者をなくするであろう。
2:32 そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。あなたの家には永久に年老いた者がいなくなるであろう。
2:33 しかしあなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。またあなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬであろう。
2:34 あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのためにそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬであろう。
2:35 わたしは自分のために、ひとりの忠実な祭司を起す。その人はわたしの心と思いとに従って行うであろう。わたしはその家を確立しよう。その人はわたしが油そそいだ者の前につねに歩むであろう。

 エリは息子たちに祭司としての働きの重要性を《人が主に対して罪を犯すならば》(2:25)ということばを使って戒めているわけです。しかし、息子たちは聞く耳をもっていません。神さまに対し、神の民に対し、また自分の父親や親族に対してどれほどの迷惑と罪を犯しているのかがわからなくなっているのです。これが人間の罪の本質であると言えるでしょう。

 さて、エリは祭司の家系の長として、また父親としてどうでしょうか。ここまでの記事を見れば父親としての働きはしっかりしているようにも見えますが、神さまの評価はそうではありません。
 2章29節です。

2:29 それにどうしてあなたがたは、わたしが命じた犠牲と供え物をむさぼりの目をもって見るのか。またなにゆえ、わたしよりも自分の子らを尊び、わたしの民イスラエルのささげるもろもろの供え物の、最も良き部分をもって自分を肥やすのか』。

 厳しいようですが、神さまの前には、“聖さ”という結果が伴わなければならないということです。親であれば、子どもかわいさからエリまでの指導しかできないのではないか。と思われますが、エリが本当に神の民の祭司であることを考えると、息子たちは祭司職として相応しいでしょうか。

 神さまと民との間の職務である祭司職を重んじれば、息子たちを退けるべきであったことはおわかりいただけるのではないでしょうか。先ほども述べましたように、このように組織は腐敗していくのですから。


 エリは神さまから、神の人と少年サムエルを通して忠告を受けました。しかし、エリの立場で罪を犯す息子たちを退けることができない結果、神さまご自身がご介入されることとなります。

3:13 わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。

3.神を侮る結果

 イスラエル人は、敵国のペリシテ人と戦うことになりました。その際に3万人ものイスラエル人が殺され、神さまとイスラエル人との接点である契約の箱が奪われることになりました。

 これらのことは結果的に、エリが祭司職を正さなかった報いとなってしまいました。ペリシテ人との戦争で息子らは戦死し、エリ自らも失意の中に死んでいくのです。
 この時、エリは自分の役割を果たせなかったことを思い知ったことでしょう。そして、神さまを自らが侮っていたことも。

 私たちが2022年を生きていく中で何が教えられるでしょうか。
 それは、まず何よりも神さまを侮らない生活をすることです。

 自分自身の私情(私欲)は必ずあります。そこに心を奪われることはエリの息子たちだからでしょうか。また、エリのように問題を先延ばしにする結果になったのはエリだからでしょうか。そうだとしたら聖書から何も学んでいないことになります。

 神さまは、イスラエルの民がご自身を侮り、それを助長するような問題があっても、必ず解決されます。敵国のペリシテ人を使われてもです。
 私たちも自分たちの私情(私欲)的問題によって神さまを侮ることがないようにしたいものです。


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