聖書の登場人物を学ぼう|サムエル④
サムエル記上8章 求めるべきもの
1.繰り返される過ちから
実は同じような記事が2章に書かれていますのでそれも見てみましょう。
エリはサムエルの父親代わりであり、祭司やさばきつかさとしての師匠です。その2人とも、息子にはどうやら苦労をしたことがわかります。
聖書になぜ、息子たちがそのようなことになったのかは、詳しく書かれてはいません。しかし、私たちは推察することはできます。
まずは、親の側か、子どもの側か、あるいは両方に神さまを侮る心があったということです。神さまの前に祭司や“さばきつかさ”(士師)の職務の意味を考えるとき、その責任の重要さを息子たちに理解させていない、または息子たちが理解しないこと自体が問題です。
ある一つの会社があるとします。その会社の社長の息子である重役自らが、企業理念や規則に従わず、会社の売り上げをピンハネしているようなものです。これを社長の息子だからと罰則を与えないならば会社は示しがつきません。
また、従業者への統制が立ち行かなくなりますし、取引先やお客さんに知られれば信用はなくなるでしょう。身内であるからこそ、より厳しい罰則が必要だと言えるでしょう。
まして、聖書に書かれている神さまの前にはなおさら厳しいさばきとなるわけです。神さまを侮る祭司やさばきつかさ(士師)など、存在してはならないからです。
サムエルは、師匠であったエリとその息子たちのことをよく知っていたにもかかわらず、問題解決に至らなかったのです。この事案を考える時、私たちの本来の姿は、いかに気付きと姿勢と行動改めに遅いということがわかっていただけると思います。
2.王を求める民から
8章4-5節を読みます。
これまでの流れを見てきますと、イスラエルの長老たちの訴えはもっともです。「エリの息子たちだけではなく、あのサムエルの息子も同じなのか。」と落ち込んだでしょうから。悲しいことですが、信仰や人格は必ずしも子どもに継承されるとは言えないことを教えられます。
神さまは、イスラエルに王を立てることを聞き入れました。ただし、ほかの国の王と同様に、現在で言うところの税金や徴兵、そして王に対する絶対的な服従を求められました。これまでイスラエルはパートタイムの指導者が立っていました。
サムエルもその息子もそうでした。それは、神ご自身が王であるという前提があったからです。しかし、イスラエルの民はサムエルの息子の件だけが理由ではなく、見える形として自分たちを守ってくれるリーダーを神さま以外に期待したということも事実です。そのことが、8章7-9節に書かれています。
これまでイスラエルが不安定なのは、彼らの不信仰がその原因でしたが、イスラエルの民は士師制に問題があると考えたのでしょう。しかし神さまは、王を立てることを認められました。イスラエル人が、王を求めた理由は決して信仰から出たことでないことは明白です。
神さまは、祭司や士師(さばきつかさ)が不信仰であり、またイスラエルの民が神さまに不従順であっても、神さまは忍耐をもって、大いなるあわれみを示されてイスラエルは存続していくのです。
3.サムエルの人生から
彼の人生は、これまでの信仰者に比べて特別優れているのかというとそのようには見えません。むしろ、エリの家系やイスラエルの不信仰によりサムエルという信仰をもった者との代替わりとして描かれているように見えるのです。
サムエルという名前は「彼の名前は神」というような立派な名前です。しかし、一方では息子たちの腐敗などもありました。このように見ていくと、サムエルは現代の私たちにとっての見本と言えるかもしれません。
特別に優れた信仰者というイメージのあるサムエルですが、むしろ等身大の信仰者としての生き方を見せてくれているように見えるのです。つねに神さまの側に立ってはいるのですが、失敗もする普通のイスラエル人としてです。もちろん、当時のイスラエル人の中では、突出した指導者であり信仰者であったことは間違いありませんが。
サムエルは、大きな事業を成し遂げた一人です。その背後にある人生は、どのような時でも自分の判断ではなく、神さまのご意志を尊重し信頼した点にあったのでしょう。
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