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面白い 監督が作る作品は 無名の頃から 既にオモロい 〜不都合な「才能」についての考察(1)〜

 さて、拙noteが10,000ビューを超えた!ということで、ここで、映画について、観客としてずっと思っていた「不都合な真実」について、したためたいと思う。

 それは、面白い映画を作って高い評価を受けている、世界各国の映画監督の映画は、彼らが無名だった頃に作られたデビュー作、あるいはデビュー前の自主制作のドキュメンタリーのような作品の時から、「圧倒的に面白い」ことが多い、ということである。

 デビュー作やその前の作品が作られた頃というのは、美術系の学校や、映像の専門学校に通っていた時だったり、大学卒業後間もない時期であったりして、彼ら、彼女らは、20代の若者である。その時代に、こんなに面白いものを作っていたのか!と衝撃を受けるほどに、面白いことが多い。一つ目の作品から注目される人ばかりではないとはいえ、漫画でも、小説でも、映画でも、演劇でも、その後、著名な立場になられる漫画家や、映画監督や製作者たちが、彼らがまだ無名の若者であった瞬間(とき)に作った初期の作品の面白さは、やはり圧倒的なのである。

 映画の場合は、まだ学生であった頃に作ったような初期の作品はDVD化されず、見られる機会が少ない。学生時代に作られたものなどが、たまにレトロスペクティヴで特集され、限定上映の機会に公開されたりすると、映画ファンを公言する身にはたまらなくワクワクして見ることになるのだが、その頃の作品というのは、機材も決して凄いものでもなさそうで、製作費も限られているだろうに、そういうことが全く気にならない。むしろ「大人の都合」が一切介在せず、監督が若き衝動をもとに魂をかけて作った作品であるがゆえに、他の洗練された作品よりも圧倒的に面白い、と感じられるような作品だったりもする。

 その後、海外の映画祭などで注目を浴び、有名な監督となって、雑誌でインタビューを受けたり、日本人監督の場合は「通販生活」のカタログに出てくるような人になったとしても、初期の作品には既に、その後の作品に通底するテーマが出てきたりしている。また、監督の「好きな構図」のようなものも、初期の作品に登場することがよくある。例えば、重要な場面で追いかけ合うシーンが多い監督だわね、と思ったが「この構図、初期の作品から変わらないのか!」とか思ったりする。その後、その監督が強く影響を受けた映画監督や映画に言及するインタビューなどを読むと、「なるほど!」と思えることも多い。

著名な監督による映画のシーンの構図に酷似したシーンが出てきたり、影響を受けたと思われる設定などがその後の監督の作品に出てくることについては、決して「パクリ」として批判をされるようなものではない。魂を込めた、素晴らしい作品を後世に残してくれた方々への、「尊敬の念をこめたオマージュ」と言えると思う。

 そのように、一観客として見ている立場からすると、とても残酷な目線ではあると思うのだが、「ある監督が作る作品の面白さ」というのは、後から訓練して身につけられる技術も多少はあるとはいえ、やはり、20代のうちに、既に、勝負がついている。監督の社会問題に対する目線や、人間の性(さが)を考察して形にする視点、また作品に昇華させるために持つ表現者としての覚悟や展開の面白さや、台詞の見事さ、などのようなものは、20代のうちから、既に完成されている。

 初期の作品は面白かったのに、その後の作品は「???」というようなものになっていってしまう監督も、残念ながら、世界各国に多くいらっしゃるとも思う。制作意欲にあふれた、まだ無名だった時代の、若き衝動のようなものが失われた年代に差し掛かっても、コンスタントに面白いものを作ることができる監督もいらっしゃるのだが、そういった方々と彼らをサポートする周囲の優秀なスタッフの存在は、いかに稀有で貴重なことか、ということも、同時に思ったりもする。

 だからこそ、日本映画業界に提言したいのだ。箸にも棒にも引っかからない(→失礼)会話で繋ぐ、若者たちの、予告編から既に展開がまるで気にならない、どうでも良すぎる三角関係の恋物語の作品や、無意味に気持ちの悪い性的なシーンが出てくる、「僕は(観客として日本映画を見るのは)もう疲れたよパトラッシュ…」と言いたくなるようなものを、無理して赤字覚悟で自主制作の延長で作ろうとせず、本当に世界と勝負できる才能のある監督たちや制作スタッフだけに必要なトレーニングを施し、海外の映画を買い付けようとする貴族のようなヨーロッパやアメリカの映画配給の世界にいる人々とも対等に通訳なしで語れるような語学力も身につけさせ、作品をPRできるだけのプレゼンテーションの能力を身につけさせるべきだと思う。優秀な監督に対しては、資金を集中的に提供し、彼らが「全力でのびのびと商業的ではない芸術的な映画を製作できる」環境を作っていくべきではないかと思うのだ。

 多くの業界は(よく知らんけど)、その指標が「利益、売上」になってしまって、映画業界においても「利益、売上」を無視して作ることは難しいだろうけれど、本当に才能のある稀有な人々が作りたいものは、経済合理性や商業主義の目線からすると、無縁のテーマであることも多い。観客からすると、映画と同じようなジャンルのものに見えている、漫画や小説などの世界と比較すると、映画業界は若い人が活躍する地盤がかなり脆弱であると思う。

漫画の世界に関していえば、その後大ヒットしたものを作っている書き手の方は大抵高校生の時からデビューしている。高給であることが想像に難くない高学歴な編集者が、名もなき高校生たちを選抜して、時にはかなりの重圧をかけながら、作品を作らせていく構造には、若干の心配を覚えるところがあるとはいえ、やはりクリエイティブな才能というのは、その才能を潰さずに彼らを支援していく「業界のことをよくわかっていて、作品を流通させる権限を持っている、大変に優秀な、(お金に困っていない)その業界を愛する大人」の存在が欠かせない。

 「派閥」同士がお互いを嫌悪してしまう高学歴マッチョなオッサンたちが牛耳る映画業界においては、難しい面もあるとは思うが、若き才能を育める環境をどうか「サステイナブル(持続可能)」に残してほしいと切実に思う。


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