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ねぶまずに 生きていけたら いいのにね…40過ぎるとますます大変…

いつまで「女子」と名乗って良いのか分からないが、便宜上「女子」という呼称を使わせていただきたい。

女子力、といってもその能力は多様である。美しさ、料理のうまさ、気遣いの力、ファッション、コスメ、書いててなんだかムズムズするのは自分がそれらのことに興味がなさすぎて脳が拒否反応を起こして、フリーズするからである。

40過ぎると、女子力フェーズがさらに難易度をまし、高キャリア、良き母、良き妻、であることがここに加わってくる。さらに子供の数と性別のバランス、マンション持ち家賃貸、立地、ペットの有無。犬なのか、猫なのか。

女子力の高さには、手作りの料理、家事をちゃんとこなす、いつもきちんとしている、などの、目には見えない、いろいろなハードルも存在する。

そして子供の有無は置いておいても、見逃せないのは「夫の勤め先、職業、もちろん収入、住む地域」という、女子本人によるものではない家族の存在が、既婚者同士の値踏みには欠かせないマスト・アイテムとして登場する、ということである。

仕事の都合で、お金に余裕のある(ちょっと暇そうな)女性と話をする機会が多かった時期があった。当時、自分は30代の前半くらいで、結婚はしていたものの、子供はいなかったので、既婚女性同士の競争意識の大変さを実感したことがあまりない立場でのびのびと、でも仕事には病みながら、のびのび病み病み生きていた時だった。

お金に余裕のありそうな、ちょっと暇そうな既婚女性たちは、突然、何も聞いてないのに、夫の職業、企業名を言い出す傾向がある。企業名をはっきり言わない場合でもこちらが推測が可能なヒントはちゃんと含む。絶対にわかる懸賞の答え、みたいである。あるいは、夫の出身大学の立地を言い出すことが頻発した。一部の高学歴であるひとたちの特徴。キャンパスの立地で伝える大学のレベルの高さ。駒場にある大学。三田にある大学。あ、三田製麺所の…とか、ああ〜、駒場アゴラ劇場の見習いスタッフなのかな?とはならない。高田馬場にある…あー、東京富士大学ね!とも、ならない。

なんで、いきなりその立地などを、それを伝える必要もなさそうな場面でわたしにいうんだろう、と狐につままれていると、女性同士の人間関係に私より詳しそうな友人から、「まずそれを言うことで自分はちゃんとした人の伴侶であるという立場を示すことが必要なのだろう」と言われた。

つまり、ただのおばちゃんだと、ナメラレナイようにするということだ。

まるで相撲の立ち合いの前に、少し時間をかけてぐるぐる回って、いろんな動きをする力士の準備のようなものだと私は思った。確かに、ただの暇そうなおばちゃん、が、ただの暇そうなおばちゃんだが「夫が〇〇(ここには、入れるとなんかすごそうなあなたが思い描く有名企業とか学校名を、好きなように、入れて欲しい)卒であったり、○○に勤めるおばちゃん」になると少しこちらの態度が変わる、ということなのだろうと思った。

今40歳を過ぎてみると、40歳を過ぎて、何も武装をしない女性の立場はとても不安定だと思うことが増えた。若い人からも、年上の人からも、全方位的にナメられてしまうのだ。特に自分の場合は、見た目が若く見えやすく、体型が華奢で決して極真空手などをしていないタイプであるせいで、ますますもって、すごい勢いで小馬鹿にされやすい立場にいる。

「ドラゴンボール」を小学生のころ夢中になって読んでいた立場からすると、この女性同士の競争には、終わりがないのであった。なんなら育ちをふくみ始めたら、夫が生まれた時の病院、夫の入った墓石の石の材質まで続きそうな勢いである。御影石なのか、その他なのか。石の種類を知らなくて例が出せない。

 問題なのは、ハナからこの競争から降りたいと思っても、競う意識がある方は、勝手にこの競争のまな板にこっちを乗せてくることで、乗せてこられると乗ってしまうというか、マウントの恐ろしいところは、ねぶまれたら、ねぶんでやらなきゃホトトギス、そんな視点が作り上げられてしまうことである。

また、ねぶみを日常の武装としている女性が中心にいる集団においては、その女性がすごい、ということを常に言い続けなければいけない謎の太鼓持ちマインド、みたいなものが周囲に広がり、伝染していく。これは、割と最近まで経験していたが、とてつもなく、キツかった。

ねぶまれずにいきていける、持ち上げなくても成立する、そんな女性との人間関係は、本当に貴重だと思う今日この頃である。

以上です。



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