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女性の語学力に対する自負と、女性がみずからの美醜に対してもつ自意識は、とても似ている

昨日から今日にかけて爆発的にアクセス数が増えている。こうなったらこれまで思っていたことについて、どんどん!書いていこうという感覚になってきている。2度と同窓会には出られないかもしれない!まあ、いいか!全部フィクションだし!(しつこい!)

ICUが世間から閉ざされてPR意識が皆無なように見えるので、あまり知られていないこともあるので、歯痒い気分になるのだが、平均的なICU卒業生の英語力のレベルはとてつもなく、高いと思う。自分は今でも、大学で全く英語ができない方だった…という残念な自意識をかなり強く持っているのだが、ICUにおける英語力の比較は、軸がおかしなところにあったと痛感する。特別熱心に英語を勉強していたわけでもなさそうな友人たちの中にも、TOEIC900点台の人たちが珍しくないし、なんならTOEIC満点!という友人も何人かいた。その英語力をスポーツなどで例えれば、全国大会に出られるレベルの人たちばかりだった、というような感じであろうか。

私のように地方生まれ地方育ち、眠そな奴が大体友達、だった私がICUで、This is a pen由来の残念な英語力を駆使して、英語を学んでいるときに強く感じたことは、時に、英語(あるいはその他の外国語)が得意な女性同士が見せる、お互いの英語力への張り合い意識や、ジャッジ意識のとてつもない強さであった。

これもかなり当該女性の性格によるところはあるが、英語ができる日本人というのは、そもそもとても希少な存在である。ある地域の、特別天然記念物に指定されていたオオサンショウウオが、水槽に大量に入っていて、さほど珍しいと思われなくなり、その形状を比較しあっているような感じとでも言おうか。オオサンショウウオをはじめとした天然記念物たちには、お互いを張り合うような自意識はあまりないとは思うが。

特に寮に住んでいると、英語力の差を日々の生活の中でまざまざと目にすることになった。留学生との交流や寮会という、いまだにその時の情景すら思い出されてとても思い出深い、英語と日本語で行われていた(!)月一回の、強制的に全員が参加しなければいけなかった会議などを通じて、英語力の差が明らかになる。大学に入るまでは、高校では一番英語ができると思われていたような学生同士が集まり、さらには見た目は完全に日本人なのに、発音も表現もネイティブ並みに英語がうまい人がいる、ことに恐れ慄きクリビツギョーテン!というような状況が日々、生まれていたと思う。少なくとも私は日本語と英語の同時通訳という役割の人が存在する会議に、毎月テンションが爆上がりしていた。先輩や同級生たちが繰り出す英語に、感銘を受けながら会議に出ていた。

英語力、と一口に言っても、発音が綺麗で語彙も豊富で、さらに大学での課題にもついていける英語力がある、というような人から、会話は得意で話すのは上手なのだが、あまり書けないしTOEICなどのスコアはそれほど高くない、というような人もいるし、発音はカタカナだし、自然な英語は全く話せないし、書けないし、読めないけど英語は得意だと思っていた(自分)、というような人に至るまで、英語ができる人が集うと、評価軸がさらに細かくなる。周囲に英語が堪能な人が当たり前にいたインターナショナルスクール出身の人たちは、英語力は間違いなく日本人としてはとても高かったとしても、「英語なんてみんなできたよ」というような感じで、割とライトな意識だったように記憶しているが、周囲に英語があまりできない日本人しかいなかった学校の中で、英語が異様にできた人たちは、どうしても私のような日本生まれ日本人の英語力に対して、かなり手厳しい評価をしてくることがあった。

しかしながら、英語への自負、というのは皆強く、そのことがアイデンティティー、というような女性は間違いなく多かった。その細かい英語力の優劣のつけ具合や、他の女性の英語力をジャッジする人もいれば、それほどでもないゴーイングマイウェイな女性もいる、という意識のありように関して言うと、自らの語学力に対する(特に女性の)自意識は、”女性が自分の容姿をどの程度他の女性よりも優れていると思うかどうか”という感情のありように酷似しているのではないか、と思うようになった。

語学力というのは、絶対的な評価軸というものが存在しない。TOEICやTOEFLなどのスコアの比較で能力を測定することはできるが、本人がどの程度、自らの能力に対して自負があるか、また周囲の人との比較において、どの程度の位置に自分がいると思うかが、大きな軸になる。少ししか話せなくても自分はペラペラだ!と思っている人もいれば、ネイティブ並みの発音で話しているのにそんなに英語ができない、と思っている人がいるのである。

これがどう美醜の問題と繋がるかといえば、3姉妹の中で、3姉妹のうち2人が道端ジェシカと道端アンジェリカのようだったとして(例えが古くてすみません!3姉妹といえば道端で・・・)全然似ていなくて、ひとりだけ可愛くないと言われたりして育った、というような女性は、冷静にその三人同士の比較から離れて見れば、そんなに可愛くないわけではないのに、「自分は全然可愛くない」という自意識を強固に持って育つこととなる。

これを英語力に置き換えると、周りが英語がペラペラな人が当たり前にいる中で過ごしてきた、というような人は、それほど「英語ができるのよ私!」というような感情を持っていなかったりする。海外で育って、発音はとても綺麗なのだが、挨拶くらいはできるけど難しい表現が言えない、という人がいたとして、少し挨拶をしただけでも「Hello(ヘロウ!)」の発音からしてまるで日本人と違うので、「ペラペラだ!」と周りからは思われたりもするのだが、当の本人は「自分はそんなに英語ができない」と思っていたりすることがある。

カタカナ発音だし、あらゆる文章をIt is 〜that という構文だけで突き通すようなゴミのようなエッセイを書いていた私が、「地元じゃ負け知らず(©️修二と彰)」だと思っていた、というような感じで、どれくらい自分の語学力があると思うか、という意識と、「自分がどれくらい可愛い女性だと自分のことを思うか」は、あくまでも周囲からの評価や扱われ方、経験によって積み重ねられた自意識のありようや、狭い世界の中でどのような立ち位置にいたかに左右されるのである。実態があるようでないが、本人たちはその価値観に強烈にとらわれていたりする。

女性同士の関係性は怖い、と良く言われるが、確かにとても怖い。私の記憶が確かならば、女性は、幼稚園の桃組に所属していた5歳の頃からすでに十分、怖かった。40過ぎたら、ますます怖い。怖くない人も、もちろんたまにいるのだが、男性同士の関係に比べると、女性が女性に対して対抗意識を持つ際に、女性のことをジャッジする目というのは、解像度がとてつもなく細かいのだ。

面倒くさいことを言っておるのう、と思われるだろうか。料理が上手で、優しくて、こじらせてない、ゆるふわで、素直で若い女の子がやっぱり素敵だよね!と私も思う。I agree with you!(ICUの授業で習った表現)


 

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